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 トントントン、此処数日踏まずにいた狭い階段を独りで上る。ただそれだけの行為だというのに、何故か、壁が今にも迫って来そうに思える程、息苦しい。
「……別に、喧嘩とかしてねぇし」
 蓮は、ゆるりと頭を振る。そして、背後から誰の足音も聞こえないと耳を澄ませた後、立ち止まった階段の真ん中でポケットから携帯電話を取り出した。
 マナーモードのままだった待ち受け画面には見慣れた着信のマークが表示されていて、主を調べるまでの過程すら考えることなく指が動くようになっていた。
 何度も掛かってくる着信などというものは普通ならば恐くて仕方の無い代物だというのに、この表示すら鼓動が跳ねてしまう己が滑稽でしかない。
 忙しいのに、自分を思い出してくれるときがある。そんな女々しい発想を伝える事は絶対にしないけれど、思うだけならば個人の自由だと、過ぎる思考に嫌気がさしながらも否定は出来なかった。
 たかが数日だというのにまるで二度と逢えないような錯覚に陥ってしまうのは、それほどまでに近い距離に居た所為なのだろうか。
 数日後に撮影を終える健悟を何食わぬ顔で送り出し、涙など絶対に見せないようにしなければならないと思っているのに、たかが携帯の一動作で口元が歪んでしまうのは、今だけに限った事ではない。
 今日は、健悟も帰らないと言っていた。
 きっと心配した睦に言われたから自分を呼んだだけの利佳もきっと、自分の部屋になど近寄らずにさっさと寝てしまうものだろう。
「…………」
 そう解釈した蓮は、ゆっくりと携帯のシャープボタンを押して携帯のマナーモードを解除した。
 あんな約束は最早無効だとは思いつつも、これから入るあの部屋で無機質なマナーモードを聴けば、それだけ健悟が離れていくようで、なんだかやるせなかったからだ。
“なにそれ俺は特別かー調子にノるぞーばかー”
 初めてマナーモードを解除すると約束した日、そんなことを言われた。
 トクベツだなんて今では喉から手が出る程に欲する称号を安易に宿され、それを、何も考えずに否定した。
 それさえたかが数日前の出来事だというのに、この気持ちさえ治まれば再びあの晴れやかな笑顔が見られる筈なのに、ぐにゃりと携帯の画面すら歪んでしまうのは何故だろうか。
「……あーーー」
 やべ、と目元を雑に拭ってから、再び携帯をポケットに押し込み、久方ぶりの己の部屋の前に立った。
 この家に何個もあるなんてことのない扉、たかが部屋を隔てているだけの三センチの扉だというのに、ドアノブに触れようとした手がビクリと揺れて反応を見せた。
 頭では開こうと考えていただけなのに、勝手に拒否した手に驚く事しか出来ない。久しぶりのドアノブに触れるだけで、たかが自分の部屋なのにこの中を想うだけで、開ける勇気が一瞬本当に無くなってしまった。
 中に誰も居る筈が無いと分かっているのに、真っ暗な自分の部屋があるだけだというのに、くだらない思考を鼻で笑い、勢い良くドアノブを握り締めた。
「……ばっかじゃねぇの」
 一言呟いてから、ぐいっと一気に右手を手前に引く。
 そして、ぶわっと目前に拡がるのは、もちろん何も変わらない、十七年間蓮自身が暮らしている部屋だ。
 毎日使っていた教科書も、利佳との喧嘩で壁に開いた穴も、寝床にある水色のタオルケットもそのままの、何千回と見てきた自分の部屋がある。
 それなのに。

(……ああー、いやだな)

 たった一つ、学習机の上に置いてある見慣れないもの、たった一つ。
 それだけで胸に抱える靄が身体中に拡散して、脳髄がドクドクと震えてから、ひゅっと息を飲んだことが分かった。
 無言のまま部屋に足を踏み入れ、内鍵を施錠してから目的物へと一目散に進んでいく。
 その到達点で蓮の腰ほどの高さの場所に置いてあるのは、あの日健悟にあげた香水と全く同じ代物だった。
 ずっと健悟が使っていて、蓮が新しい物をプレゼントした時を境に、使われることがなくなった、あの香水。
「…………」
 カタ、と小さく震わせながらそれを手に取れば、既に半分以上が無くなっていて、健悟がそれだけ長くこの匂いを纏っていたことを知る。
 今は匂いも何も無い部屋、健悟が使っているのか、踏み入れてすら居ないのか、それとも利佳の部屋に居住を移したのか、それすらも分からない。
 けれども、当たり前に健悟の物が置いてあることが分かる、この部屋が嫌だということは率直に思えた。
 香水の瓶を右手に持ちながら、ふっと部屋を見渡せば、健悟の替えのスーツがカーテンレールの端に所在なさげにぶら下がっているのを見つけた。
 ベッドにはいつ脱いだのか定かでは無いながらも灰色のスウェットが置きっぱなしで、いつもは散らばっている筈のゲームソフトさえ綺麗に収納されている。きっと健悟が片付けてくれたのだろう姿が安易に想像でき、たかが部屋に入るだけでこんなにも情報過多に陥りそうになるほど、痕跡が残されていることを知った。
「……」
 酷い懐かしさに眩暈がしそうになり、ふいに握り締めた拳に、硬い物の存在を思い出す。
 そして、肝心な本人が居ないというのに、痕跡ばかりが残る己の部屋には安堵感と寂寥感を同時に覚えてしまい、考えるよりも先に、顔の前でシュッと右手を動かしていた。
 “好奇心”
 健悟の話を盗み聞きした日に取っ払いたい感情だったのに、懲りずに再び出てきてしまったらしい。
 それは香水をたった一撒きしただけの音だった。しかし数日間姿を見ていない存在の充分なまでに懐かしい香りが拡がり、瞬時に後悔が走る結果となってしまった。
 細かい霧が歪んだ弧を描くと同時に、空気中から直接的に蓮の鼻腔を刺激する。
 一瞬何も考えられないように頭が真っ白になってから、吊るされたスーツが滲んで消えるかのような錯覚に陥ってしまった。
「……うーわぁ、ちょう自殺行為……ははっ、」
 たかが匂いだけで、ぽろ、ぽろ、と勝手に頬を落ちる雫がある。
 独りだというのに笑ってしまうのは情けなさと遣る瀬なさから来るもので、自嘲じみた笑いが込み上げてしまった。
 香水の霧が消えても、すん、と鼻を揺らせばまるで身体を浄化してくれるかのような嗅ぎ慣れた匂いに支配される。
 だかがそれだけ、――匂いだけで泣きそうになるくらい、すき、なんだよな、まだ。



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あきゅろす。
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