23










―――十年前。








* * *


 ドカンッ!

 大きな音を立てて蹴り付けたのは自動販売機、すっかり古びたそれの排出口が詰まったが故の行為だったというのに、鈍い音に反応した鳩や雀が長閑だったはずの公園から賑やかな羽音を立てて飛び立っていった。
「……あーー、つかれた……」
 そんな音すらどうでもいいと、ぼそりと小さな声で呟きながらもプシュッと空けた缶、反してどかりと腰を下ろした場所は塗装の剥がれたベンチで、大して綺麗でもない都会の空は疲労を増長させているような気さえする。
 がりがりと頭を掻けばすっかり馴染んでいる黒の鬘が悲鳴を上げて、今すぐ葬り去りたいという欲求が一瞬だけ生まれてしまった。
「………………」
 時刻は夕方の五時半、健悟と同じ齢である中学生の軍団が楽しそうに帰宅している光景を横目で見ては、見ないふりをして咥内に走る温かなブラックコーヒーへと意識を委ねた。
 中学校に所属してから九か月も経つというのにまともに出席した記憶はなく、教室に自分の席があるのかどうか、その場所すら定かではない。暢気そうに通学路を駆け回るその姿と己の立ち位置を比べても意味がないことは分かりきっている。片や楽しそうな学校生活、方や早朝ともいえない真夜中から二仕事を終えての漸く手に入れた休憩、夕方の五時とはいえ疲労度が違っているのは仕方のないことなのかもしれない。
 雪が降りそうなほどに寒い十二月という季節に、たかが道路上で相手を追い駆け回すだけで何が楽しいのだろうか、聞こえる声は華やかなもので、此方の体力までもが奪われていくような気がした。
「…………だる」
 自宅はすぐそこだというのに、一度腰を下ろしてしまえば動きたいとは到底思えなかった。
 じんじんと痺れる足先を引き連れて疲れ身にブラックコーヒーをもう一口押し込めば、どうせ帰っても誰もいないし、と疲れた頭で失望の溜息を漏らしてしまう。もう慣れたそれとは正反対に、生後数ヵ月の頃から身を置いている筈の理不尽な環境、芸能界という大きな括りには十三歳になった今でも未だ馴染むことはできなかった。
 これから先一人で生きていけるだけの資金も既に充分貯まっているからこそ、もういっそのこと辞めてしまおうかと思った回数は両手では足りないものの、辞めたところでこれからどうするのだと己に問えば答えは一向に見つからなかった。この道以外に生き方を知らないからこそ、いま辞めたとしてもきっと、進む道は分からなくなる。仕事を放棄した途端に外にも出ず誰にも会わず、ひっそりと呼吸が消えても誰にも発見されない最期まで容易に想像できる自分が何よりも空しかった。
 そもそも問題は、現在縁を切られているも同然のあの両親だ、親代わりとして事務所の会長と社長らに育てられた自分が、仕事が嫌だからというそれだけで、自己中心的な裏切りをして許されるはずがない。
「……めんっどくせー」
 けれどもやってられないこともある、自分が子供なのか周りの大人が横暴なのかの区別はつかない、監督の気分ひとつで今まで収録していた三週間分のテープがすべてやり直し、新たな構想に乗せられた脚本家が台本を幾か所も直しては収録日が迫っているというのに一から台本の覚え直しを強要された。加えてそれに反対した先輩が役から降ろされる場面を真横で見聞きした上、キャスティングの変更に伴いこれから見知らぬ人物が現場に顔を出すことへの心労も出てくる。
 そして、今は何も考えたくないと思うくらいには心から辟易しているこのことですら、クランクアップした暁にはテレビの宣伝番組で楽しそうな顔を貼り付け苦労話として話さなければならないのだろう。
 何が正しくて何が正しくないのか、そんなことすら分からなくなる。感情も殺して演技をすればそれが正解なのかと、現場を去った先輩の背中を見ては言葉も出なかった。
「……辞めてぇな」
 けれども、ぼそり、呟いた後に、どうせ俺じゃなくても良いし、と溜息を吐くのは健悟本人のみだった。
 俳優としての真嶋健悟を寵愛している社長が、「健悟でなければこの役は意味を成さない」と監督が熱望していた事実を伝えたところで、どこか信じていないような視線を向けられて話は終わってしまうからだ。ああそうの四文字で終わる会話はいつものことで、健悟が赤ん坊のころから連れ添っている事務所内のスタッフでさえ健悟の笑った顔を見たことは一度も無かった、演技に没頭している、カメラの前以外では。
 薄く口元が歪んだ笑みや苦笑、微笑みの類と言えばみるのはそればかりで、誰かを慈しむ表情や大口を開けて笑うことなど考えられない。どれだけ演技が上手くとも、どれだけ人気や地位、財を得ても、健悟にとっての「たのしいこと」、心を動かすことだけは分からず、声に出さずとも皆が思っている疑問でもあった。
 所詮は子供の反抗期だと言えればまだ優しいものだけれども、例えではなく人生で一度も笑顔を見たことはない、齢相応の子供らしさの欠片もなかった聡い健悟には仕事のオファーは多いけれども、その反面プライベートな誘いは一切受けず応じずの姿勢を崩してはいなかった。
「……だりー」
 そんなことすら微塵も自覚もしていない健悟が小さく呟くと、再び遠くから楽しそうに笑う制服の子供の声がした。
「…………」
 卑屈になるのは台本の覚え直しの面倒臭さと、中途半端な自分、将来の不安、周囲との温度差から。
 物心つく前から子役という位置に居た自分はこの道しか知らずに生きてきたけれど、道路を駆け回る中学生は自分よりも余程純粋で綺麗な水を飲んで生きているのだろうと思う。愛でられ甘やかされて、それこそホームドラマで良く見るような理想の家庭の中に身を置いているのかもしれない。
 ―――十三歳。そろそろ子役という枠から抜け出し、本格的に線の向こう側へと行くことになる。今以上に注目を浴び、いつまで続くのかも分からない馬鹿げた飯事のような世界に入る覚悟が本当にあるのだろうか。
「…………」
 幸い地元の中学校にも在籍はしているわけだから、辞めるとすれば今だろうな、と改めて溜息を吐いてはブラックコーヒーを喉奥に流し込んだ。
 理不尽すぎる芸能界の裏側を突き付けられたこの日くらいは、誰かがそばに居れば良いのにと思う。
 普通ならばそれが親であり家族であり親友であり、友人であり、自分に近しい人が一人は思い当たるはずなのに。誰ひとりとして頭に浮かばない自分は、どこか欠落しているのだろうと今更思う。よく今まで生きてこれたと、偶然の重なりに感嘆するほどだ。
 誰か適当に呼ぼうかと携帯電話を取り出してもこれといった友人が居るわけでもなく、見えるアドレスといえば勝手に登録された、薄い関係でしかない女性のものばかりだった。ついでに煙草の入った内ポケットに手を伸ばしたそのとき、ふと、何かに引っ張られているかのような重力を感じた。
 上を仰いでいた健悟には決して見えることのない、膝に乗る重みとぐいぐいと引っ張られている重力に、図らずとも怪訝な表情が生まれてしまう。
「……は?」
 眉を顰めながら見えた先には、見下ろす位置にある真っ黒な後頭部。どう見ても人間の頭でしかないそれは小さく、未だ幼稚園児か小学生かの判断は付かなかった。
 顔も上げない真っ黒い後頭部に離せと言っても従うことはなく、健悟は溜息を吐きながら煙草に火をつけた。この姿が週刊誌に載れば終わりだと、会長から散々言われたことも頭から棄て去り肺に煙を送り込む。
「なに」
 そして、目の前にある塊に煙を吹きかけないよう注意し空に向けて線を描きながらもぶっきらぼうに紡げば、目の前の頭が途端にぶるぶると震えるものだから、泣いているのかと思うと同時に、面倒くさいと心から思ってしまった。
「…………」
 親族や家族、思い返してみても子供と触れあった記憶はなく、じんわりと濡れていく膝元が涙だと気付いたときにはひくひくと頬を引きつらせることしかできなかった。
「……ぐすっ、……うっ、……ううっ……」
「……えー……」
 ひく、と吊り上る口角は面倒臭さの象徴、誰、と聞いても返ってくる言葉は嗚咽ばかりで手掛かりにもならない。なに、と再度訊いてもそれは同じで、背を曲げしゃがみ込んでいる塊は、人の膝に勝手に額を置いては厚かましくも涙で濡らしてきているようだった。近くに人が居れば譲り渡すものの、夕飯時だからか普段入り浸る主婦層も子供も居らず、都合悪く公園に居るのは自分だけ、誰も居ない場所に子供を放っておけるほど冷たい人間にはなりきれず、面倒くさいとは思いつつも、携帯で時間を確認すれば時間だけは充分に残っていた。
 再び周囲を見渡せども、やはり親や友達が居る気配はない。ぎゅうっと膝元を握ってくる手が不安を意味しているようで、仕方ないと思いつつも、まるで安心をあげるかのように真っ黒な髪の毛をぽんぽんと叩いてあげた。
「迷子? 親は?」
 言えば、迷子というキーワードに反応したようで、出逢ってから数秒間、初めて黒髪が面を上げた。
「……っ、……ちが、ぅ、……りっ、りかがまいごんなったから、おでが探してあげでんのっ…」
 まん丸の黒目が殆どの領域を支配している双眸は涙でゆらゆらと揺れていて、顔の大きさよりも幾分か小さな手でその目元をごしごしと拭っていた。
 リカという人名に首を傾げながらも、拭いても拭いても涙が止まらないらしいその姿は充分同情を誘うもので、健悟は仕方ないとばかりに盛大な溜息を吐き出した。
「あー……まぁ、とりあえず、交番連れてってあげるから」
 煙草をスニーカーの裏でぐしゃりと潰せば、交番と聞いた彼がまたぐすっと鼻水を啜って、色々な液体に塗れた顔を引き連れ健悟の膝をぎゅっと握り締めた。
「……うぇっ、……おにいちゃ、だれっ」
「……えー、誰って……まぁ、通りすがり?」
 戦隊モノにでも出ていなければこれ位の年齢の子供はそら知らないわな、と溜息を吐くと同時、通りすがりというよりも、其方が勝手に泣きついて来たのだろうと思った。
「………スガ、リ?」
「いや名前じゃなくて、……まいいや」
 たかが子供を交番に届けるくらい、名乗るほどの事でもないかと頭を掻いて、健悟は立ち上がった。台本が入った軽いショップバッグを小脇に抱えて、ちょこちょこと後ろを着いてくる涙目の彼に問い掛ける。
「おまえ名前は?」
「、れんっ」
 ぱっと顔を上げたと同時によそ見をした彼は、何もないところで転びそうになるものだから、また泣かれては敵わないと、健悟は溜息を吐きながら空いていた左手を蓮に差し出した。





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