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「あっぶねえな……ほら。手。繋いでて良いから。すぐそこだし」
 言えば涙目ながらも少しだけ嬉しそうに手を握ってきて、健悟よりも二回りほど小さな手からは不安というよりも一人ではないという安心感が伝わっているような気すらした。子供って単純だな、とうっすらと思いながらも特に会話をするでもなく、歩幅の小さな蓮に合わせながらゆっくりと足を進めていく。
 けれども、錆びたベンチを後にして交番に向かおうとゆっくり歩幅を進めたそんなとき、静かに流れていた時間は、後ろから掛けられた嫌味ばかりを含んだ声によって、一瞬で阻まれてしまった。
「あっれー?」
「―――」
 冷やかす声は三つ、恍けたように悪どく笑っているのは殆ど喋ったこともない健悟の中学校のクラスメートたちだった。
「(げ、)」
 心の声がそのまま顔に出てしまったのか、健悟の怪訝そうな表情を目にした彼らは卑下た笑いを浮かべながら健悟に近寄ってくる。面倒臭いものに捕まった、と健悟が溜息を吐けば、それすらも楽しそうに学生服は嘲笑っていた。
「やっだー、芸能人様はもう隠し子なんているんデスカ〜?」
「…………」
 何が楽しいのか、言いながらも三人は下品に笑っていて、相手にしない自分はともかく左手がぎゅっと強く握られたことが分かった。
 卒業式に整列した記憶もない小学校どころか中学校にあがってからはまともに授業にすら参加していない、偶にしか行かない学校だというのに女子や先輩が際限なく寄ってくることがこの上なく気に食わないらしい。学校生活などどうでも良い自分からすれば酷く幼稚な考えだとは思いつつも、学校だけが彼らの居場所なのだとしたら考えられないことではないのだろう。優先順位の優劣は、人それぞれだ。
「……冷静に考えろよ、迷子だろ。相変わらず頭弱いな」
 健悟は蔑むように吐き捨てて、横を通り過ぎようと蓮の手を引いた。
「、てっめぇ!」
 けれどもそれを許さないらしい同級生は逆上しながら蓮の手を握っていない右腕を引っ張ってきて、行動早く健悟の太腿の後ろに蹴りを一発入れてきた。
「……ってぇ」
 幸い転びはしなかったものの、反射的に大きな舌打ちだけが響いた。此方がチッと舌打ちをして静かに睨みつけただけで一歩後ずさるくせに、よくも攻撃する勇気があったものだと思う。
 たかが出席が少ないからといって遊んでいるわけではないと何故分からないのだろうか、虫の居所が宜しくないことも相俟って此方こそ気が済むまで殴りつけてやりたくなってしまう。
 以前作品への妥協を一切許さない監督にあたったとき、格闘技の訓練を一通りプロから指導されたことがあった。相手が三人居るとはいえ、戦わずとも勝敗は分かり切っている。けれどもたかが子供の喧嘩が、「たかが」で終わらず誌面上を揺るがすのが芸能界、自分から引退するならまだしもこんな奴らに道を変えられて堪るものかと、我慢で拳を握ることしかできなかった。
 大人しく努めるそれを無抵抗と取る馬鹿は調子に乗って子供の前では教育上宜しくない言葉を次々に並べてくるからこそ、逆上を抑えようと我慢する頭では受け流していたつもりだった。
 しかし無意識に握り締めていた掌が蓮にまで伝わってしまっていたらしい、蓮は健悟の掌をじっと見てから、自分から握っていた手を離し、小さな両手を使って健悟の手から抜け出した。
「、!」
 そして健悟が気付いた時には時すでに遅し、とっくに手中から抜け出したらしい素早い黒髪は、一目散に三人に近づいて行って、届きもしない背で主犯格のお腹の辺りを両手でボカスカと殴りつけていた。
「うわっ!」
 ひとつひとつのダメージは少なくとも背が小さいからか中々振り払うことができず、罵声が響く中、横で見ていた二人が蓮の肩を抑えつけてはあっさりと拘束されてしまった。捕えられた手とは正反対に足は未だ主犯を蹴り付けていて、脛に当たった攻撃は思いの外ダメージが大きかったらしい、相手はたかが子供だというのに大きく右手を振り上げていた。
「っのやろ……!」
「、!」
 そして、拳を振り下ろそうとしたその瞬間、健悟の視界には手を振り上げていた男の顔よりも蓮の泣きそうな表情に目がいって、頭で考えるよりも先に走っては、その男の腕をグッと掴みこんでいた。
「……てっめえ、――その手下ろすなら俺もマジでぶん殴るけど、良いんだな」
「っ、」
 言うなれば営業用とも言える顔で睨みをきかせれば所詮は中学生、大人でさえも怯ませる自分の双眸が勝つことは端から分かりきったことだった。蓮の手を掴む二人に離すように促せば、あっさりと拘束を解いては教育上宜しくない言葉を並べては過ぎ去って行く。
 後に残るは汚い言葉と砂埃、健悟は呆れたように溜息を吐きながらも蓮を起こして同じ目線までしゃがみ込んだ。そして怪我が無かったことを確認した次の瞬間、健悟の顔が左に揺れて、視界が己の意思とは正反対に移行していった。
「…………」
 訳の分からぬ頭の端、じんじんと痛むのは頬だけで、反射的に手を翳せば熱を持っているらしい頬が、初めて他人に殴られたことを知った。
「……ばぁぁかっ!」
「、」
 そして、小学生になるかならないかの子供に全力で罵られ、此れは自分に言っている言葉なのだろうかと疑うことも無理はない。こっそり後ろを見ても誰も居らず、黒い双眸の中に真っ直ぐに映る自分を確認しては自分に言っているのだと、漸く気付くことができた。
「なんでさいしょっからそうしねんだよっ、言われてだまってんじゃねえっ」
「……えー……おまえのせいなんですけど……」
 蓮の言い分に納得できず呆然としたまま言っても、相手は純粋な瞳を持って「なんで」と尋ねてくるのだから始末に負えない。
「…………」
 考えてみれば、初めて人に殴られたということは、初めて売り物を殴られたのだと気付いた。
 同じ業界の人間や事務所の人間ならともかく、同級生でさえ恐くて殴らない売り物は誰もが自分に遠慮していたという確固たる一線を引いていたものだったのに。たかだか出逢って数分の子供に殴られるくらいには、きっと、自分の世界もまだまだ狭いものだったのかもしれない。
「……相手にしなきゃいいんだって、どうでも良いんだから」
 はぁ、と溜息を吐きながら諦めるように健悟が言うと、蓮はむっとしながら再び健悟のことを叩こうとしたため、今度はその小さな手を余裕で受け止めれば余計にむっと唇を突き出されてしまった。
「どうでもよく……ねえしっ、ちゃんとケンカしねっきゃなかよくなれねって、りか言ってたしっ!!」
「仲良く、って……」
 する気もないけど、と悪気無く言えば空いていた脚で膝を蹴られて、蓮の視界に合わせるようしゃがんでいた下半身がバランスを失い膝をついてしまった。
 何をムキになっているのかぷるぷると震える箇所は唇だけではなく睫毛も同様で、震える手の甲を見てようやく、―――もしかして、恐かったのだろうかと思った。
「…………」
 迷子になって、自分よりも数十センチも大きな男に叩かれそうになって、そんなこと、このくらいの子供からしたら十分なほどに恐ろしい体験だったのだろう。
 眉を寄せ身体が震えてしまうくらい強がっているというのに、それでも怒っているような様子は言うまでもなく健悟のため、此方の身を案ずるよりもまずは自分の身を心配しろと思わせるには十分すぎる行為だった。
「……わーったから、ごめんって、まきこんで」
 関係ないくせに、という冷たい言葉は一度飲み込んで、目の前で震えそうな身体を撫でてやる。
 抱きしめるように背中を叩き頭を撫でれば、小さな身体が小刻みに揺れたのち、またぐずぐずと鼻水を啜る音が聞こえてきた。
「はいはい、落ち着け落ち着け」
「……りがぁ〜〜〜〜」
「……だから誰だよリカって」
「、うぁっ、……ぅうう゛ー……」
 必死にしがみ付かれているせいか自分のコートには皺が寄っているのが分かったけれど、それほどまでに我慢していたことを偉いと誉めてやりたくなりそうなまでの泣き方だった。
「彼女かよ、マセガキ」
 ぽんぽんと真っ黒い頭を叩きながら、ふっと笑いながら言っても返事は嗚咽に消えていく。ただぎゅっと抱きついてくる背と皺の寄ったコートが、今誰よりも必要とされていることの証拠となって、営利目的以外の優しさには久しぶりに出会ったとぼんやり思った。
「…………」
 じんじんと熱を持つ頬を引き攣れ考える。自分には喧嘩をして仲良くなる相手もいなければ、喧嘩をした記憶すらもないような気がする、と。笑う、泣く、怒る、感情を司るそのすべてはカメラの回っている前でしか表現したことはなく、もしかしたらカメラの回っている前が一番、人間らしいと言っても過言ではない気すらする。
 腕の中の小さな塊は自分よりも何歳も年下のくせに、経験値を比べたときにどちらが上かと問われれば安易には答えることができない気がした。
 “普通”とはかけ離れた華やかな世界、その類稀なる経験値は得ていたとしても、真っ当な人間として健やかに育っているという意味では、こんな小さな子供に負けているところばかりなのかもしれないと思ったからだ。
「…………」
 ――ちゃんとケンカをしなければ、仲良くなれない。
 そんな純粋理論で生活をして意思を貫いている子供、目の前の真っ黒な塊にはどんな世界が見えているのだろうか。鬱陶しいほどに感情を露わにして、正論を掲げて、周りの反応はどのようなものなんだろう。嫌いな人物などいないのだろうか。
 好きな人ばかりの世界と、嫌いな人ばかりの世界。年齢は違えども同じ人間、見える世界は同じはずなのに、感じる世界は、正反対な気さえした。
 そう思ったとき、ふと思ったことがある。例えば道路を駆け行く中学生も、自分が知らない経験を、どれだけしているのだろうと、そんなこと。自分の世界は高々十三年で十分なほどに形成されたと思っていたけれど、今この瞬間、偶然にも現れたこんな子供のせいで世界が少しだけ広がりを見せたことに驚いた。
 出来るだけ見て見ぬ振りをしていた感情、自分には関係のないと思っていた感情、……“羨ましい”という純粋な感情が、酷く子供染みたそれが、一瞬、心臓から音を立てて溢れそうになってしまった。



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あきゅろす。
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