21
「なっ……!」
 目の前に映る自分の顔は最早酷いとしか形容できない昨日の顔、目の縁は赤く目蓋は腫れ、頬の上には分厚い隈が乗っている。いくらフラッシュがたかれているはいえ暗い廊下でいきなり撮られたものだ、顔色は一層悪く見え、明らかに宜しいとは言えない写真だった。
 昨日利佳が悪戯に激写した写真だとはすぐに分かったけれど、それが健悟の携帯電話に残っているという事実に頬がかあっと赤くなり、蓮は考えるよりも先に手を伸ばし健悟の携帯を奪おうとした。
「なんで持ってんだよ!」
「…………」
 けれども健悟は無言でその攻撃を避けて再度携帯を見やり顔をぐにゃりと歪めた、そして、真剣な面持ちで蓮を見ては、少しだけ唇を噛み締めてから言葉を紡いでいく。
「言ったじゃん。利佳から連絡が来たって。これだけが添付してあるメールが届いたの、なんの文字もなしに。空メで。―――この顔だけが。」
「、」
 健悟がずいっと携帯電話を差し出してきたのは蓮の真正面、それには変わらず直視したくはない自分が映っている。眉を寄せながら追求してくる強い灰色の双眸に負けた蓮が背を引くと、健悟は溜息を吐いて静かに携帯を閉じた。
 艶の良い髪をがりがりと掻いた健悟の表情は暗く、何かを言い出したそうに口を尖らせているようだった。
「……そんなん、心配すんに決まってんじゃん。……だから、聞きに来たんだよ、蓮に、この理由」
「理由、って……」
「……俺に関係ないんだったら、利佳は俺に送って来ないだろ」
「、」
 ぼそり、小さく吐き出された健悟の言葉が耳を通り脳に辿り着くと、意味を飲み込むまでゆうに五秒は要した。
「―――……!!!」
 そして、明らかに含みのある台詞を反芻し、理解すると、……一瞬で顔に熱が集まり、逃げ出したくなった。
 
 ―――……やばい。

「…………っ、」

 ……バレ、てる?

 り、利佳がなんで健悟に送ったのかとか、なんでこんな顔だったのか、とか、……なにこれ、え、バレてんの? ……いやバレていいんだって! これからぜんぶバラすんだって……! …………でも、あああああ、いざ、逢ったら、……やっべえ……!
 これは、まじで、……やばい。
 ぜんっぜん心の準備なんてできてないことに気付いた。気付かされた。東京まで何時間も掛かるから、その間に整理しようとおもってたのに。心臓がうるさい、マジうるさい、超うるさい。どくどくどくどくうるさくて、こわれそうだ。
 こんなにも追求するような視線を投げられて、こんなにも本心を曝け出せとでも言うような強さを見せられて、こんなにも含みのある言い方をされて、そんな、理由なんか……何から話して良いのかなんて、ぜんぜん、分かんねぇよ。
「っ、」
 つか、なに、その、俺のために来てくれたみてぇな感じ。なんでそんなこと言ってんのおまえ、ばかじゃねえの、おい。
 いまはやべぇって、まじで、おれん中なんて、いま、こんなに穢くて疚しくてぐちゃぐちゃなんだから、おまえに言えないようなこと、言いたいこと、いっぱいいっぱいあって、なにひとつ纏まってないんだから。
 そんなこと、いうなよ。なぁ、そんなに期待させるようなこと、言うなよ、……アホ。

 頭の中でぐるぐるぐるぐる廻っていく思考にさよならを告げることはできなくて、健悟が此方の出方を待っているらしい今でさえ、何を言えば、何から言えばいいのか、ぜんぜんわかんない。あれ、これ、……おれ、テンパってる?
「、」
「ん?」
 顔を上げればやはり此方の出方を待っているのか焦らしもせずに一直線に見つめてくる顔がある。久しぶりに感じる柔らかさに一気に熱が集まって、耳まで赤くなってしまいそうな気がするのは、気のせいではないのかもしれない。
 まずい、って。俯きながらそう蚊の鳴くような声で紡げば、周りの騒音に掻き消されてしまったらしい、健悟は「なに?」とはっきり疑問を口にした。
「…………」
 その様子は此処に居た時から変わらず、こんなにも戸惑っている自分が可笑しいのかとすら思えてしまうくらいには平然と見えた。こんなにも余裕がないのも俺だけで、こんなに恰好悪いのも俺だけで、逢いたかったって、話がしたかったって、そう思っているのも、……俺だけだったのだろうか。
「……べ、つに……ちょっと嫌なことあっただけだし、おまえに、関係ないし、」
 そう思ってしまうと自分の行動が恥ずかしくて、舞い上がって期待している自分にすうっと冷めてしまう感覚があった。そんなことを言いたいわけではないのに、何も言わない沈黙が恐くて思ってもいない言葉が口から出ていく。偽るのは止めて素直に言おうと思っていたのに、勝手に出てくる言葉が邪魔をする、……ぜんぜん、うまくなんていかない。
「……つかおまえはなんでいんの、なんで来てんの、んなかっこで来たらやべぇだろ……あぶねぇんじゃ――」
沈黙を恐れて勝手に開いていく唇に、――もう言うな、そう、思った瞬間だった。

「――……もういいよ、そういうの」

 何にも負けないような鋭い眼差しが届き、一瞬で言葉を封じられたのは。
「……っ、」
 いつものように柔らかい笑みもなく、少し怒っているのか呆れているのか区別の付かない苦い表情がそこにはあった。
「言ったじゃん。関係ないとか、二度と言わないで」
「、」
 けれども、強く発された言葉に少しの引っ掛かりを見つけて何も口にすることができなかった。
 二度と、と発されたその言葉。それはいつか、次があると、そういうことなのだろうか。問えるはずもない期待が生まれると同時に、いまこの時が、「またね」と称された時なのだと知る。此処を離れて行った健悟、体育館の大スクリーンで手を振る健悟、嘘ではなかった約束が、いまこの瞬間、果たされているのだと知った。
 健悟の泊まる旅館に遊びに行ったとき、自転車に乗りながらさらりと風に乗った言葉、嘘はつかないという言葉の裏付けにぐんぐんと信憑性が増していく。
 次が来るならば、どんな形でも構わない。
 友達でも、親友でも、兄弟でも、家族でも。いま抱えてるたくさんのことを話せば、話し合えば、なにかが変わるのだろうか。

 ――『また』は、もう一度、来るのだろうか。

「…………」
 頻りに上昇する心拍数と比例するかのように、顔に熱が集まって来る。頬も額も耳も熱くなる中で、とにかくまた逢いたいと、これからも友達で居たいと、まずはそこから始めなければならないのかと、震えそうな口を開いた。
「ねぇ」
「、」
 しかし、空中に言葉が浮いたのは健悟の方がはやく、張り詰めていた決心は脆い氷のようにひび割れてしまった。
「な、……なに、」
 吃ってしまった口調を正すように自分を落ち着かせながら返事をするも、目の前の男から与えられるのは落ち着きを感じる笑みでも優しい口調でもない、諦めにも似たように口角を上げ笑う自嘲的なものだった。
「おれさ。正直……蓮と逢うの、最後かもしんないって思って此処にいんのね」
「、……は?」
 こちらが決心した矢先に別れを仄めかされ、蓮は盛大に眉を顰める。
 その表情から出先を誤ったと悟った健悟が慌てて繕い、蓮に向かい合うよう体勢を正していた。
「あ。待って。最初に言っとく。でも本当は、最後にはしたくない」
「、」
 当然のようにあっさりと、蓮がずっと言えずにいた言葉を投げられて、タイミングの良さに驚いてしまい声も出なかった。そんなん俺もだ、そう言いたかった一言は驚きのまま声にならず、心の中をぐるぐると動き回っている。
「でもさ、もしかしたら最後になるかもしれないんだ。だから、……最後だからさ、ちょっと話きいてよ」
 お願い、と真剣な表情で付け足されれば拒否という選択肢は自動的に失われる。
 何を言われるのかは恐いけれど、誰よりも好きな人に懇願されて、ずっとずっと逢いたかった人に覗き込まれて、突き放せる人がいたら見てみたい。
「俺のこと嫌いでもなんででも良いから、ちょっとだけ。話しよ?」
「……きらって、ねぇよ」
「そっか、」
 掠れた声で蓮は否定を示したけれど、薄く笑った健悟を見て、信じてねーな、と寂しくなった。
 無条件に信じて、無自覚に愛しくて、漠然とずっと一緒にいれると信じていた日は、どれだけ前のことなのだろうか。
「…………」
「懐かしーね、ここ」
 それでも、こちらが話を聞く姿勢になったことで安心してくれたのか、ぽつりぽつりと健悟は言葉を紡ぎ始めた。
「星も綺麗だったけど、やっぱ普通の空も良いね。夕陽も綺麗なんだろうなー。蓮の言った通りだね」
「…………」
 すげぇよかったなぁ、と静かに落とされた一言は立派に過去形を示していて、邪な感情を自覚したあの日、健悟が好きだと気付いた時のことを思い出した。ぴったりと背に沿う温かな体温が気持ち良くて、肩に落ちる尖った顎の重さも腹に廻る腕も噎せ返るような香りすらその全てが愛しくて、ぼんやりと視界が歪んでいたあの日。
 同じ場所に居る筈なのに、まるで分厚い壁を挟んでいるような気さえする今とは、大違いだ。
 段々と崩れて行った歯車の結果が示す今の距離、少し離れた位置で健悟を見上げると、相変わらず綺麗な肌が主張する横顔がある。出会った頃は広大な自然には似つかわしくないと思っていたそれは今では緑にすんなりと馴染んでいて、そよそよと吹く緩やかな風に揺れる髪を見ては、本当に目の前に居るのだと、再び実感しては胸が熱くなった。
 昼間はあんなにも秀でた映画の主役に扮していたというのに、あんなにもすごい人間が、あんなにも切望されている人間が、いま、目の前にいるのだ。
 朝まで続く仕事を終えて、試写会を終えて、そこから新幹線に乗って。忙しいだろうにわざわざ来てくれたのだろうか。
 たった一枚の写真、たかが自分ひとりの顔、……それだけで。
「……けんご」
「ん?」
「映画……見た、さっき」
 目の前に健悟が居るというそれだけで、じわじわと身体中に喜びが広がって行き、躊躇っていた筈の言葉は予想外にすんなりと出てきた。
 空気に馴染んだそれを健悟が聞き逃すはずもなく、今となっては懐かしいとすら思える微笑みが降って来る。
「知ってるよ、今日お願いしてたから」
「おまえが、お願いしてくれてたの?」
「そうだよ」
 柔らかな笑みに合わせて灰色の瞳が揺れて、肯定の返事が返ってきた。
「前に、蓮が見れないって言ってたからね」
「、」
 それと同時にそう呟かれて、自分の過去の一言を覚えていてくれていたことにはもちろん、あんなにも大規模なそれを立ち上げてくれた優しさに不覚にも胸がきゅうんと揺れてしまった。まるで少女漫画のような効果音のそれが、現実世界でも本当に起こりうるのだと頷くことしかできない。つきりと痛んだ胸は今までの慣れた辛さからではなく、確実に歓喜の声を示していた。
「本当はね、学校で上映したとしても、それでも蓮の意志で見てもらえなかったら嫌だなって思ってたところ。……でも見てくれてよかった。ありがと」
「ありがとうって、おまえな……」
「ん?」
「……なんでもねーよ」
 健悟から、ありがとうの言葉を今までに何回貰っているのだろう。
 自分が喜ぶべき場所なのに、御礼を言うべき場所なのに、いつも与える側の健悟が御礼を口にする。
 笑顔とセットで送られるその言葉が懐かしくて、棘の刺さったような痛みを自覚した蓮の頬が段々と赤く染まっていく。
「……あ、……あれも、健悟が企画したって、あのなんかオマケっぽいやつとか、」
 ごまかすように話題を変えて行くけれども、少しでも気を抜いてしまえば吃ってしまいそうな焦燥は変わらない。
 
 ――変だ。

 目の前に居るのは健悟で、いままでに何度も逢って、喋って、触れたことがあるはずの人物なのに。
 それなのに、なんでこんなに、今までにないくらい……ドキドキしているんだろう。

「あはは、そうそう。みんなスケジュール合わなくてさ、ギリッギリになっちゃったけど。届いてよかったよ」
 照れ臭そうに笑う健悟には、きちんと体育館内の熱狂ぶりを伝えてあげた。涙を流して喜んでいた子が何人も居たと伝えたところで、嬉しそうに上がった口角に此方の頬まで緩んでしまう。
 先程の体育館内では、何人も何十人も、画面の“真嶋健悟”を目で追っていた。けれども蓮だけは、同じ人物を追っていたとしても見る観点から違っていて、慣れない眼鏡と視線の先を思い出し、再び心臓がざわめき始める。
 情けなくも涙を流したことは記憶に新しく、後押ししてきた親友の顔を思い浮かべてから、ぎゅっと拳を握り締めた。
「――……指輪、見えてた」
 言えば、それだけで一瞬、時が止まった気がした。
「…………うん」
 健悟の返事が遅れて聞こえて、その後に緩い動きで彼の左手が持ち上がる。
「外してないからねー、ちゃんと」
 健悟の左手が持ち上がった先には自分の右手があって、三センチ離れた先で輝くペアのピンキーリングを、久しぶりに見た気がした。
 陽の光が反射しきらりと光るそれに新たな光沢を見出しては、かちりと重ならない指輪に胸が締め付けられる。
「……よかった。ありがとう」
「、」
 まただ。
 指輪を貰ったのは蓮の方だと言うのに、なぜか嬉しそうに御礼を言うのは健悟で、蓮は唇を噛み締めたこの瞬間、今すぐにでもその手を引き寄せて握ってしまいたい衝動を必死に堪えていた。
 今の自分が嬉しさに任せて手を取れば、健悟の言う友情の証、正しい友達の距離なんて、簡単に逸脱してしまう気がしたからだ。



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