20
「、」
 まるで耳が吸い寄せられるように、一瞬にして音が消えた。聴こえる物音全てが一切無くなる感覚に陥る。さあっと吹いた風で揺れる木々の音も、枝を揺らす虫の声も、狭い歩道を通っているトラクターの音さえもが、一瞬だけ本当に頭から飛んでしまった。
 すっかり硬直しきった身体は心臓を揺らすことすら忘れているようで、手足がぴくりとも動く気配はない。蓮ひとりだけが時間から取り残されたかのように、動けなくなっていた。
 後方からの声に振り向くことも出来ずに停止していると、突然、パキリと小枝の折れる音がした。
 そして土を踏みしめる音が蓮に近付いてきて初めて、ようやく心臓が律動を取り戻す。
「、」
 懐かしい声を意識すればするほど心臓だけではなく頬に上気も集まって、先ほどの声を反芻するだけで、混乱した現実に蓮は背骨を震わせた。
「……けっ、!」
 蓮が壊れたロボットのように不自然な動きで後ろを振り向けば、紛うことなき予想どおりの人物が立っている。
「ここだと思った。……アタリ。」
 更にはゲームに勝利した時のようにふわりと緩い笑みを見せるものだから、頭の片隅では夢かと疑う一方で、泣きそうなまでに身体中から湧いてくる熱はこれこそが現実だと告げていた。
「……けん、ご?」
 久しぶりに、本人に向かって名を紡ぐ。
 先ほど数時間見ていた黒髪のスーツ姿ではない、灰色の髪を隠す黒いキャップだけは被っているものの、見える毛先は変わらず懐かしい色を教えていた。
「久しぶり」
 ゆっくりと歩みを進めた健悟はあの時と変わらず蓮の左側に腰掛けて、キャップを取ってから髪の毛をくしゃくしゃと自然にセットしている。
 此方の心中も知らぬ健悟があまりにも当然のように座るものだから、煩い心臓の音はもちろん、余計に焦燥が治まることはなかった。
「……はっ? ……え、え?」
「うん」
「や、うんじゃなくて……はっ? ……え、なんで……、東京は? 試写会は? えっ、」
「あはっ」
 きょろきょろと蓮が無意味に周りを見渡せども何があるでもなく、寧ろ健悟はその様子が余程可笑しかったのか堪えきれないとばかりに口に甲を当てて笑い出す。
「慌ててる」
「―――」
 くっくっと笑いを噛み殺しながらもしっかりと頬は緩んでいて、細まった瞳に残る灰色に、ようやく健悟が居ると、脳内の片隅で認識できた気がした。
 大画面で見た俳優ではない、皆が知っている真嶋健悟ではない、飾らないこれは、隠しもしない笑みは、たしかにあの時一緒に居た健悟、たかが一か月を過ごしただけでこんなにも半身を持って行かれた、あいつだ。
 見る人全てを魅了してしまうかのような姿は相変わらず健在で、その証拠に蓮が抱える一番の心配といえば、自分の心音が健悟に聞こえてしまわないかと、その一点だった。
「そんな蓮見れただけでも来た価値あったわ」
 ふぅ、と呼吸を落ち着かせるように、息を吐く前に言われた言葉。

 ――蓮。

「、」
久しぶりに呼ばれた自分の名に、意識をせずとも頭の中がふわふわと浮き足立っていることが分かる。
「んな……慌てる、だろ、……ふ、普通……」
 顔に出てしまいそうなそれが恐くて俯くけれど、その瞬間に思ったことは、もったいないと、それだけだった。
 逢いたくて逢いたくて切望した人が目の前に居る、それなのに眼を逸らすことが今までなんで出来たんだろうと、そう思った。
「なん、で、いんの……?」
 おずおずと顔を上げた蓮が健悟に尋ねる。
 相変わらず聞きたいことが山ほどあって、言いたいこともたくさんあって、けれども整理ができなくて、少しだけで良いから時間を止めてしまいたいくらいだ。
 けれども健悟はどこかすっきりとした表情をしている気がして、落ち着いて此方の質問に答えてくれる。
「利佳に送ってきてもらった。ココだと思ったから」
「……は? 利佳? なっ、なんで、……は?」
 ――利佳に逢った? 俺が、ここに居ると思った? なんでそう思ったの、なんでわざわざ、逢いに来てくれたの。
 訊きたかった言葉は頭にどんどん浮かんできたものの、驚きだけが言葉となり吃音すら出てしまった。
「あはは、ちょっと落ち着いてよ」
 あまりの蓮の狼狽ぶりが予想以上で健悟が宥めると、蓮も自分の言動に照れながらも、コホンとひとつ咳払いをしてから再び健悟を見上げる。
「だって、なんで居るんだよ?」
「それって、俺が此処に来た理由? それとも此処に来れた理由? ……銀座で試写会やったのは午前中、そっから車飛ばしても良かったんだけど、新幹線の方が速そうだったから。乗り換えキレーにやったらちゃんと着いたよ、いま」
 口角をあげながら「此処に来れた理由」を紡ぐ健悟には焦らされている気にしかならず、蓮は少しだけ唇を尖らせた。
「……そうじゃねぇだろ」
「だよねー」
 蓮の反応が予想通りだったのか健悟はまたも小さく笑って、ポケットから取り出した携帯電話を弄り出す。
「昨日利佳から連絡があってさ」
「…………」
 携帯電話の色は、黒。
 健悟の中では自分と同じカテゴリーに振り分けられている利佳に、少しだけちりちりと胸が痛み始めた。
「メールくれてたんだけど俺こっちの携帯持ち歩いてなくて、気付いたの今朝でさ」
 遠回しにも今朝まで仕事だったという事実を蓮は悟り、そこから東京の試写会を終えて、その足で飛んできたのだろうかとぼんやり思った。
 自分が一切の連絡を絶っていたのは逃れようもない真実だが、たった利佳からの連絡一回で、距離を越えて逢いに来たのだというのだろうか。その小さな事実を噛み締めればぐっと喉の奥が詰まり、充分過ぎるほどに衝撃を与えてくれた。
「電話掛け直したら、もうすっげえ怒られてさ」
 何も可笑しい事はないのに自虐的な笑いを浮かべた健悟に、二人の間にどんなやり取りがあったのだろうと胸が疼く。
「つかさっきも逢ったんだけど、そんときのあいつが人生で初めてってくれぇ、ほんっとに怖かったわけ」
 ――さっきも逢った。
 さらりと放たれた健悟の一言に、蓮の背に鳥肌が這った。
「…………」
 利佳が車で出て行ったことは他の誰でもない自分が知っている、あのあとで利佳は、健悟に逢いに行っていたということなのだろうか。あんなに嫌いだと言っていて、それなのにきっと駅までわざわざ健悟を迎えに行ったと、そういうことなんだろうか。
「っ、」
 想像したくない結末が見えた気がして、蓮は今までの自分の思考回路を呪いながら眉を顰めた。
 けれどもその横で健悟は未だ携帯を弄っていて、蓮の表情を横目に見ながらも手早く携帯をカチカチと動かしている。
「――で、」
 すぅ、と健悟が息を吸い直したことを、蓮は知らない。
 そして、まるで覚悟を決めたかのような強い瞳を従えた健悟が手を伸ばしたのは、蓮の真正面。

「……なんで蓮がこんな顔してたのか、聞きに来た」
「っ、」

 ずいっと見せられた携帯電話に映るのは紛れもなく昨日の蓮自身で、武人が帰ってからすぐ利佳に撮られた写真がそこにはあった。






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あきゅろす。
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