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「……しっつれーしましたぁー」
 絶対に話相手が欲しかっただけだ、と言いたくなるような説教という名目の無駄話に漸く終止符を打った蓮は、深い息を吐き出しながら職員室を出て行った。
 普段は無数の蔭が落ちる廊下すら賑わいを見せることなく、うっすらと聞こえる声の出所は撮影をしているのだろう校外からのみだった。
 さっさと帰れよ、というまともな言葉は先程教師から掛けられた最後の言葉だ。そして、そう言われると反発したくなるのが生徒の性であり、勿論生徒である蓮もその例外では無い。
 聞かずとも体育館に居るであろう幼馴染に連絡する事無く、妥当な足取りで向かう先は立ち入り禁止の札が大きく主張している区域。
 慣れた手付きで屋外へと足を進めれば、やはり此処は何時来ても変わらない、扉を開いた途端に夏風が髪を擽り、緑の匂いが蓮を支配した。あの蒸し暑い部屋とは大違い、これぞまさに気分転換。
 しかし、兄の在学中に一緒に来たことも、一人で授業をサボって来たことも何度だってある筈なのに、この場所に立った今、一番に頭に浮んで来るのは昼休みに此処で一緒に弁当を食べた健悟のことで、たった一度だけのそれを何故思い返してしまうのかは分からなかった。
 此処から見える空の思い出なんて幾つもあるのに、笑う健悟の幻影すら見えそうになるんだから、自分で思っている以上に重症なのかもしれない。
 やめやめ、と首を横に振った蓮が思考を遮り、聳え立つフェンスに寄り掛かる。扉付近に座ろうとしたとき、見えた光景を思えば情けなくも胸が痛んだからだ。
 そんなとき。無数に広がる青と緑を視界に入れ、帰るのが面倒臭いと嘆いたときだった。真下が如何にも煩くて、部活も無いのに珍しいと、ふと下を眺めたとき。その瞬間、蓮は文字通り顔面蒼白となり、反射的というべきか一瞬にして後ろへと後ずさってしまった。
 たかが一瞬で締まりの無くなった心臓を押さえ付けても、ドクドクと俊敏に刻まれるリズムは一定を乱さない。
「…………はあっ?」
 一人だと言うのに大声を上げてしまうことも無理は無いだろう。
 だって、いまのは。
 五月蝿い胸元を押さえるように忙しなく擦るも、不意打ちとは卑怯なもので見えた光景を願ってもいないのに勝手に脳内で反芻させられてしまう。
 高いフェンスから離れた今、確かめたくとも地上は全く見えない。
「……マジで」
 だからこそ、漸く状況が整理された頃を見計らい、数センチ毎をゆっくり進んでいく。そろそろとフェンスに近寄ると、地上の光景が段々と蓮の視界に入ってきた。
「……うお、」
 言ってすぐ下唇を噛んでしまったのは、余りにも脆い自分の好奇心と、見たくなかった光景を直視してしまったからという二つの理由だった。
 蓮がフェンスから身を乗り出すその位置は、都合が良いのか悪いのか、すぐ真下の校庭が丁度良く見える位置にある。
 そして其処で、最早見慣れた撮影が行われていたのだ。今日の撮影は体育館ではなかったのだろうか。
 上から見下ろすその場で、一際輝くスーツを真っ先に見つけてしまったのは、偶然でもなく本能なのかもしれない。
 好きな人だけはまるで世界が切り取ったかのように別枠で見える。昔利佳がそんなことを言っていた気がする。もしかしたら、今此処に利佳が居たならば、二人同時に同じ人物を見つけていたのだろうか。
「――……って、バカか。くっだらねぇ」
 過ぎった空想を鼻で笑うその間も、見ている先は変わらない。
「……」
 木の陰に健悟が隠れて見えなくなると自分も移動する、という無意味な動作を三度繰り返して漸く、此れは充分にストーカー行為に値すると気が付いた。
 頭を抱えて何をしているんだと自分を叱咤することは勿論忘れないものの、勝手に動いていた身体には勿論理由がある。
「あーもう、なんなんだっつの……」
 フェンスに寄り掛かり、一方的にしか見ることのできない人物を充分に離れた位置から睨み付ける。きっと彼が上を向かない限り気付かれる事は絶対に無い、安全なポジションだ。
 しかし、其処から見える健悟は、演技から戻るとき、椅子に座るとき、誰かと話したその後さえ、一々寂しそうな顔を払拭しきれていない。終始悩ましげな顔をしているのは気のせいではない筈だ。見るからに落ち込んでいる様子を休憩中現場で創る必要も無く、きっと自分でも分からぬままに自然に出ている溜息なのかもしれない。
 ……俺が無視したからかな。
 おこがましくもそんな事を考えた。
 そういうシーンなのかもしれない、演技がうまくいかないだけかもしれない、煩い観客に疲弊しているだけかもしれない、利佳と、昨日何かあったのかもしれない。
 そうは思っても、昨日聞いた弱弱しい健悟の声が頭を過ぎり、胸がつきりと痛むことはもう何度目だろうか。
 そして、もう一つ。こうして落ち込んでいる健悟を見て、過ぎった事項があった。
 以前健悟が恋人の条件を言っていた時のことだ。
“そんとき、すっげー落ち込んでる俺に同情しながら励ましてくれるんじゃなくて、ケツ叩いて前見ろって言われたらサイコーね”
 あの幸せそうな笑顔で理想を語っていた健悟が思い出される。まさにいまが、丁度当て嵌まるのではないだろうか。顔が曇る原因は明確では無いものの、もし今の健悟の隣に利佳が居たのなら、きっとケツ叩いて前見ろって、そう言ってくれるに違いない。
 今のおまえ見て、へこんでる暇があったら仕事しろって言ってくれるよ。
 今思えば、“利佳みたいだ”じゃなくて、“利佳のこと”だったんだろうな、あの条件にあった根底は。
「はぁー……」
 気分を変える為に屋上まで来たというのに、張本人に気を取られてはなんの意味もありはしない。
 いっそ久しぶりに家出でもしようか。それとも夏休み中誰かの家に泊まって雲隠れしてしまおうか。
 二人が付き合った今、これまでと変わった雰囲気に中てられるなんて冗談じゃない、如何考えても堪えられそうにない。
 漫画で良くある話だろう、兄貴の彼女を好きになるなんて。それでも、まさか、姉貴の彼氏を好きになる日が来るなんて想像すらしていなかった。
 男っておまえ。どうしたの俺、と自嘲したそのとき、マナーモードに設定していた携帯がポケットの中で轟々と震えた。
「あー……もうそんな時間?」
 くだらないことばかり考えている内に、武人を待たせすぎたのかもしれない。
 校庭脇に出来ている群れの中に居るであろう彼と、何も無い田舎でも何処か遊びに行こうかと思いながら携帯を開く。
 しかし、条件反射で押そうとしていた受話ボタンを一瞬の判断で止めた自分を心から褒めてやりたいと、蓮は心底思った。
「って、わ、……えぇ?」
 画面に映し出された文字が、見慣れた幼馴染の物では無いのだ。
 未だ手中で唸る携帯に表示されているのは予想だにしないハートマークで、思わずフェンスから真下へと視線を戻した。
 一直線に旋毛が見えるスーツの男前は、何故か頭を抱えながら電話をしているように見える。今少しでも上を向けばきっと眼が合うことだろう。此処に宗像が居れば正確に動向が知れるだろうに、蓮の視力を持ってそこまでの情報を得るのは不可能に近かった。



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