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 ぐっ、と手に力を込めて見つめる先は、未だ振動が鳴り止まない携帯電話。表示された文字通り、真下に居る相手に繋がっていることは明らかだ。
 ――んな顔して、電話なんかしてくんじゃねぇよ。
 今朝から返信すらしていないというのに、何故こんなにも気にしてくれるのだろうか。今直ぐに真下まで走って、昨日のはなんだったんだって聞きたい。聞いてしまいたい。
 おまえはなにを思って俺に接してきたのか。くれた言葉は何処までが本当だったのか、全部、嘘だったのか。
 隣が俺のものだっていう科白も、この指輪も。
「……って、たかが気紛れって言われたらぜーんぶ終わりだっつーの……」
 陽光を一身に浴び輝く小指を見ながら、蓮はぽつりと呟いた。
 健悟の一挙手一投足で揺るがされる自分が本当に悔しい。あまりにベクトルが違いすぎると分かってはいても、たかが健悟の気紛れに喜んで、嬉しいと純粋に思って、自分だけがこんなに悩んで馬鹿みたいだ。元々蚊帳の外だったくせになまじ期待しすぎたのがいけなかったのだろうか、自分だけは健悟に騙されないと、そう想っていた筈だったのに。
 いま電話に出れば余計なことばかり口走ってしまいそうで、蓮は携帯をパチンと閉じた後、それでも止まないサブディスプレイの光を見つめた。
 その延長上には変わらず健悟が居て、もうすぐ撮影も再開するのだろう、揃いのTシャツを着たスタッフも慌しく動いていた。
 震える携帯には伝わらない、自分のせいで心配を掛けて申し訳無いと思う寂寞感と、放っておいてくれれば良いと願う矛盾。
 身体の中を蠢く妙な感情を抱えながら、健悟の様子をじっと見ていると、スタッフらしきTシャツを着た女性が健悟の元に近付いていた。長身の健悟と小柄で細身の二人は酷く画になっていて、嫌が応にも利佳を思い出してしまい、中々に直視したく無い光景だ。
 スタイリストらしい女性は健悟の髪を直し、スーツについた埃を取っているようだった。抜け落ちて居る場面が無いか全身を確認した最後に、彼女は未だ電話を続ける健悟のネクタイに触れた。その瞬間、女性の手がネクタイを直す仕草に乗じた途端、健悟は自然と上を向いた。携帯を耳に当てながら、なんとなしに目線を上にあげたのだ。
 それは当然空を見上げるもので、ふっとあげた視線の先に、居る筈のない人物まで見えてしまった。
「――――」
 警戒すらしていなかった健悟の攻撃に蓮が固まると、この距離だと云うのに眼が合ってしまったような錯覚に囚われた。以前にも同じ境遇に陥った事がある気もするが、あの時とは場所も境遇も全く違う。
 此方は健悟が其処に居るのを知っているからこそ、半袖のTシャツに囲まれた中一人暑そうなスーツを身に纏っているこの男が、全くの別枠に見えている。
 しかし健悟にとっては此処に蓮が居るという事実すら知らず、況してやこんな遠い距離、逆光に負けずこちらの動向が確認できるはずも無い。
「――!」
「っ、」
 それなのに、真下から自分の名を呼ぶ声が聴こえたような気がしたのは、気のせいなのだろうか。
 下を見れぬままに突発的にフェンスから離れ、驚きに心音を任せる。
 きっとこんなにも取り乱しているのは自分だけに違いない。たとえ眼があったにしろ、たかがそれだけで何を恐がる事があるのだろうか。軽く手を挙げ挨拶でもすれば良い、真剣な彼に頑張れと笑いかければ良い。それこそが本来あるべき姿だろう。
 今も猶鳴り続ける手中の振動が恐くなり、蓮は一思いにブチリと回線を切断した。そして、海をモチーフにしているらしい初期設定の待ち受け画面が現れてからは、再び青が消えることはなかった。
「……くっそ」
 こんなにも心臓が震える理由は分からない、此処まで胸がざわめく原因は何処から来たんだろう。先程垣間見えた表情も、幻影なのかすら分からないあの声も、何処から何処までが演技なんだろう。
 これ以上俺にどうさせたいの。おまえは何を考えてるの。なにがしたいの。
 それいじょうに、おれは。
「バッカじゃねぇのっ……」
 なんで逢いたがってんだよ。逢ったらもっともっと逢いたくなるだけだってわかってんのに。
 利佳のなのかって聴きたい。聴きたくない。言われたときが怖い。
 つーか駄目じゃん、ほんと、利佳のじゃん。何考えてんの俺。なにが良いの、なんであいつなの。
 いまこんなに、心臓が嘗て無いほどに煩い理由なんて分かりきってる。恐いんだ。ただ、恐い。それだけ。
 自分が友達からそう思われていたら嫌なように、こんな考え、健悟だって気持ち悪がる。こんな気持捨てなきゃならないのに、電話番号すらも消せない大馬鹿者だ。自分の小指に嵌まる指輪なんて見たくも無いのに、思い出したくも無いのに、外れるのが恐い。外すのが怖い。
 俺だけの一方通行なんて分かってたけど、勝手に期待してたのは自分だけど、そんなことまでする必要あったのかよ。ここまで俺の感情揺さぶる必要なかっただろ。
 こんな気持ちが全部バレてしまったら、どうせ気持ち悪いって突き放されるんだ。
“気持ち悪かった?”
 ずっと前に訊かれた時に、ありえないって答えられれば良かった。ばかだおれ。もうわけわかんね、わかんねえ。今までずっと一緒に居たのが嘘みたいに、健悟が一気にわからなくなった。
「……あー……」
 それでも、わかってることは、こんなになってでも健悟に嫌われたくないってだけで。それだけは嫌だから、これ以上嫌われないうちに逃げなきゃいけないんだ。
 利佳と付き合う。一緒に居る。幸福になる。それが健悟の真っ当な幸せだ。壊しちゃいけない。関わっちゃいけない。
 所詮俺だけの気持ちだ、俺が忘れればなんの問題もない。忘れなきゃいけないんだ。
 つーかそうしなきゃだめっしょ、おかしいっしょ、男が男を好きなんて、んなん叶うわけねーじゃん。なんで期待とかしたの俺。ばっかじゃね。
 これでいいんだって。このままでいいんだって。
 このままだったら、きっと楽しい思い出だけを持って帰ってくれる。
 健悟が東京に帰ってあんな奴もいたって、笑って思い出してくれる。
 二度と逢えなくなるかもしれない好きな奴の中でくらい、綺麗な侭で居たいと思うのは当たり前のことだろ。
 そうならなくなるのは嫌だから、だから。
「あー……、ハハッ、……マジ馬鹿」
 意を決して覗き込んだ真下では、何事も無かったかのように撮影が再開されていた。ガシャンと震えたフェンスの音があちらに聞こえないのと同じく、健悟の喋る声も此処には届かない。余程叫ばなければ、きっと聴こえるはずも無い。
 校庭の一角で佇む“真嶋健悟”の様子は何時もと変わらず、満身の演技を続けたままだ。そうだよな。声が聞こえたなんて、気のせいだったに決まってる、そんなはずは無い。こんな不特定多数の人数の前で、“真嶋健悟”が仮面を裂く事なんてきっとしない筈だ。
 所詮は俺の只の独り相撲、自意識過剰だったのかもしれない。
「なっさけねぇー……」
 そうは思っても、己の名を呼ぶ声が頭に浮かんでばかりで、そのまま消えてくれるのを、変わらぬ青空の下で只じっと待っていた。



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