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残る爪痕 血脈の果て (薩摩和菓子)完
「諜報」
場は全てが不安定で、不定形だ。黒い海は絶え間無く、規則無く蠢く。新月の夜は何も照らさず、全ての関係を断ち切る。そこで浮く船はあまりに小さく、横波の一つで今にも沈みそうだ。アラシュはその不確かな場の中で、ただ一人座っていた。
二月も末。二年前、トースの森で寒さに閉口した教訓を糧にして、今回は厚手のコートを羽織っていた。それは夜風を遮ったが、露出している部位からは余計に凍える。機動性を確保したまま完全な防寒を図る事は不可能だったようだ。自身の甘い認識に嘲笑した。
辺りを見回した。船の上には彼と、二つの物体しかなかった。萎んだままの黒く上塗りされた浮き袋と、開封済みの透明な小さな瓶だ。彼は船を揺らさないよう身を屈めると、瓶に手を伸ばした。倒れかけた円柱がその内容物を溢す前に彼の手に納まる。彼はそれを引き寄せると、そのまま高く掲げた。逡巡するように動作を止め、息を整える。目を閉じ、意を決すると、その瓶を傾け、内容物を頭に垂らした。粘着質の液体が皮膚を滴り、下へ下へと流れ落ちる。それだけでは足りず、両手で液体を付着しなかった所まで伸ばす。全身が液体に塗れると、傍らの浮き袋を手に取り、空気穴を口に近づける。液体が口に入らないよう注意しながら、そこに呼気を込めた。やがて空気袋が膨れ上がった。慎重に空気穴を綴じ、船から身を乗り出してそれを海に押し込む。水面に気泡は上がらない。空気漏れは無いようだ。安堵すると、手に空気袋を掴んだまま海に飛び込んだ。上に出している顔以外、全身が針で突き刺される痛みにも似た寒さを感じる。それだけで動作が鈍り、疲労感が体を巡った。それに耐え、残った手を船首に掛ける。船首と船尾を結んだ軸に対してモーメントを加えると、船は海水を掬いながら一回転した。船内に水が張られ、船の高度は水面程度まで低くなっている。これで容易には発見出来なくなるだろう。船をその場に放置すると、彼はソノスに向かって泳ぎだした。

厚いコートの内ポケットは水の浸入を拒むよう改造されてある。その中に入っているのは一枚の契約書。彼は依頼主と直接契約を結ぶフリーの傭兵だった。契約書はオルスを相手にする貿易商らと結んだものである。その内容はあまり傭兵相手の依頼として類を見るようなものでは無い。
オルス港閉鎖の真相を究明せよ。現在オルス港は帝国の旗を掲げた艦隊が停泊しており、商船が近付いても大砲の射程圏に近付き次第問答無用で沈められてしまう。オルス相手の商売をする貿易省に取って商売あがったりだ。これを打開し、商売を再開するための糸口として、何が起こっているか調査して欲しい、といった内容だ。
依頼内容に帝国の名を見つけた時、少なからず動揺した。二年前、ノメイルにて内乱を誘発させようとした黒幕である。その半年後、帝国はトルカセニレ半島で行われた決戦に敗退、ネーズルとトスキールの間で停戦協定を結び、今に至っているはずだった。その帝国がなぜ、ノメイルの港町を事実上占領するのだろうか。さらに不可解なのは侵略の手をわざわざオルスだけに止めている事である。幾らオルスが丘と陸海軍に囲まれているとはいえ、トスキール首都陥落時のような絨毯爆撃させあれば幾らでも突破出来るはずだ。それなのに大量の帝国海軍兵は港でたむろしているという。帝国の目的は何なのか。
この依頼をこなすにはまず、ソモン海峡を渡り、オルスに上陸しなければならない。そのため港でいらなくなった小舟を借りた後、オルス港から三百リーゲル手前、丁度大砲の有効射程圏外ぎりぎりまで漕ぎ、船を破棄して泳がなければならない。上陸後の安全も確保するため、海上でも隠密な行動が要求された。新月に任務を決行したのも、より哨戒兵に発見され難くする為だ。浮袋を黒くしたのも同上の理由である。瓶に入っていた液体は油だ。海水から奪われる体力を少しでも小さくする為の工夫である。

飛沫を立てないよう港付近の岩肌に取り付き、よじ登った。上に誰もいない事を確認すると、体を引き上げる。そこはオルスを取り囲む丘の先端だった。更に進み、港を一望する。
案の定、港は帝国艦隊で埋まっていたが、多くの建物から光が漏れていた。きっと居留地の住民は自宅で生活しているのだろう。予想していたより遥かに待遇が良いようだ。占領というより包囲に近い。無論快い状況とは遥かに程遠いが、大量虐殺や強制労働が無いようで安心した。
手始めに現地の人間から情報を得る為、丘の稜線城を陸海軍基地に向かって移動する。一応スカウト兵が潜んでいる可能性を考え、しゃがみながら歩く。道の半ばに差し掛かると、前方の幹の後ろに枝を貼り付けた兵士を見つけた。典型的なスカウト兵だった。景色に紛れる服装をしながらも襟には階級章を着用している。一本線に丸が一つ。国によってまちまちだが、少尉程度だろう。
警戒していなければ発見が相手より遅れてしまっていた。心の片隅で安堵しながら、これからの行動を考える。やり過ごすという選択肢も有り得るが、折角なので相手から情報を得る事にした。草木で音を立てないようにしながら対象の後ろに回り込む。左手に片刃のナイフを持つと、背後から拘束した。右手を口に、左手を相手の前方で回り込ませながら右頸動脈に。後ろからの気配に兵士は振り返ろうとしたが、首筋に添えられた鋭利な凶器に気付くと抵抗をやめた。当たり前だ。アラシュのナイフの当て方は、如何なる体術を用いようとも、自身と相手の首が少しでも離れれば刃先は首筋を抉ってしてしまうのである。
相手の様子を見て、アラシュは口を開放する。
「俺をどうしたい」
 兵士が諦観に満ちたワテクスで訊いた。
「帝国は何をしているか」
同じくワテクスで質問する。養成所で習得したものの、あまり発音には自信が無い。意味が通じる最低限の文章を用いる。
「見ての通りだ。オルスを占拠して、待機」
 兵士も至極簡潔に答えた。だが訊きたいのはそのような事では無い。
「待機する期間は。なぜ待機する」
 深く訊こうとすると、兵士は逡巡した。ナイフを持つ手に力をこめようとすると、兵士は静かに口を開いた。
「最高司令部がここの将軍と会談しに行く。オルスの開放を条件に何かを要求するはずだが、それ以上は知らない。知らないから話せない」
 二年前と同じく、圧倒的な武力の差を出しにした脅迫紛いの交渉だった。しかも今回は実力を行使して唯一の港を占拠している。前回より更に無茶な要求をするに違いなかった。
 これでもう兵士から聞く事は無くなった。
「ありがとう」
 耳元で呟くと、首筋に左右両方から斜めの手刀を押し当てた。頭の中で十数えると手を離す。形動脈洞反射で急激に血圧が低下し、兵士は崩れ落ちる。失神ゲームの要領だ。アラシュとしては気絶させただけのつもりだが、もしかしたらもう目を覚まさないかもしれない。

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