SPIRIT OF MASTER
†††
ぽつん、と涙のように落とされた白い少年の言葉に、伯爵はゆっくりとカップを持ち上げ、一口飲んだ。
思案するように瞳を伏せてカップを置くと、そっと労るように子爵を見る。
「夢…現実に疲れたかい?」
「そうではないんだ。そうではないけれど。」
子爵は弱く首を振ると、言葉を濁す。
眠りではなく、夢だと言い換えたものの、結局おなじことなのかもしれない。
生き続けることに意味を見出だせないといえば、そうなのかもしれない。
疲れている、のだろうか。
「ただ、夢を見たい、と思っていたんだ。…理由は遠くて、忘れてしまった。」
それは一世紀に及ぶ、遥かな願いだったから、きっかけなど思い出せない。
子爵の声に伯爵は首を傾げ問う。
「終わらせたいわけではない、のかな?」
暗示された言葉は生命の終わり。
生き物に等しく訪れるはずの、永遠の眠り。
「死のうと思えばいくらでも出来た。…オレの体は新しい細胞を作らないのだから。」
そうしなかったのは、愛してくれる全ての人の為。
「……オレは何故、自分が生かされているのか、解らないんだ。……きっと、世の理には背いているというのに。」
生き物として、間違っている。
眠らない。
子供も出来ない。
死ぬことはない。
子爵の指先が震える。
許されない存在なんじゃないか。そんな思いがしていた。
俯く子爵に伯爵の指先が触れる。
くす、と微笑った気配が子爵に届いた。
「そうだろうか。世の理が絶対に不可侵だと考えるなら、君は君で、それが全てじゃないかい?」
もし理に反するなら、存在など出来ないだろう、と伯爵は肩を竦め、顔を上げる子爵を見る。
伯爵は立ち上がるとポケットに片手を入れた。
「手を出して。」
「…………?」
素直に差し出された子爵の手の平に、伯爵は小さな小瓶を乗せる。
「『オーレ・ルゲイエのミルク』だよ。瞳に垂らせば、眠れる。」
銀色の小さな容器を握り締め、少年は伯爵を振り仰いだ。
「けれどね。君は、長く眠らなかったから。…きっと長く目覚めることは出来なくなるよ。」
人は一日の3分の1を眠りに費やす。140年分の眠りは、少なくても46年。
「目覚めたら世界は変わっている。君の、身体も。」
伯爵の説明に子爵は頷いた。
カタリ、と立ち上がると、伯爵に近付き抱擁する。
「ありがとう、伯爵。」
そして、寝台へ向かった。
「眠るのかい?」
「ああ。ゆっくりすればその分、眠る時間が増えてしまうんだろう?起きたらおじいちゃんなんて真っ平だからな。」
迷えば、迷う程に。
だからすぐに。
子爵は寝台に横になると、小瓶から容器と同じ銀色の滴を瞳に垂らした。
すぐに、目蓋は重くなり、小さく欠伸を噛み殺す。
とろとろと崩れる世界で、伯爵が笑った。
「おやすみ、子爵。君と話すのは楽しかった。……次は夢の世界で会おう。」
――良い夢を。
やがて、規則正しい寝息が、誰もいなくなった部屋に静かに静かに空気を震わせて。
ただ蒼い月が、窓から優しく子守唄(ラーナ)を投げかけた。
Fin
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