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龍の宝珠
十三
 趙修令に、皇后の前で阿周のことは話題にするなと言われていた。
 皇后が悲しむからと。
 それを摘花は忠実に守っていた。
 だがいま、皇后の様子は悲しんでいるとはいえないのだ。

 悲しむというより、動揺しているのだ。
 そして顔色は青い。
 それがどういうことなのか、摘花にはわからなかった。
 ただ、皇后の前で阿周の話は禁物だということはよくわかった。

 だがそれは、いまさらのことだった。
 青ざめた皇后は、震える声で摘花に尋ねたのだ。

「あなたは、阿周を知っているの?」
「え…」
「阿周の何を知っているの?」
「何…とおっしゃいましても…」
 班夫人が言葉をはさむ。
「仲良くしていたのは、阿周が十歳くらいの頃だそうですわ。そう、ちょうど阿周が死んだときですわね。皇后様、この子は阿周を知っているんですのよ。阿周の顔も姿も、人柄も」
「……」
「ねえあなた」
 班夫人は摘花に声をかけた。
「この宮中で、誰か阿周に似ている人はいないかしら?」
「?」

 何を突然言い出すのかと思ったとき。
 皇后は、摘花に向かって尋ねたのだ。
「どうして、阿周を知っていると言わなかったの」
「え?あ、それは…」
 答えるより早く、皇后は叫んでいた。
「趙修令を呼びなさい!」
 皇后は、座っていた椅子から自ら立ち上がると扉を開けた。
「早く!」

 扉の外で心配そうに見守っていた侍女たちが、皇后の剣幕に驚いている。
 どうしたのかと摘花を見やる者もいるが、摘花にもどうしたのかわからない。

「早く呼びなさい!趙修令は、どうしてこんな子を…!」
 侍女や宦官が急にばたばたと走り出す。
 にわかに騒がしくなった部屋を、班夫人は愉快そうに笑いながら出て行った。
「あらまあ、騒がしいこと。お邪魔でしょうから、わたくしはこれで一旦おいとまいたしますわ」
 そして最後、にこやかに摘花に告げた。
「摘花と言うそうね。阿周のことで知りたいことがあるならいつでもわたくしのところへいらっしゃいな。教えてあげるわよ」
「知りたいこと?」
「阿周はどうして死んだのか」
 なぜそれを、この人が知っているのだろう?
 と思ったとき、夫人は言い換えたのだ。
「いいえ、それは違うわね。正しくは、どうして死んだとされたのか」
「死んだと、された?」
「そうなのよ」
 夫人は笑った。
「死んだとされただけ。まだ生きているわよ、それはそれは元気な様子でね」
「えっ?」

「摘花!」
 皇后の声が部屋に響いた。
「あなたはもういいわ、下がりなさい!早く!」
 最後はもはや悲鳴だ。
 急にどうしてしまったんだろう?

 よくわからないが、ひとまず部屋から出ようとした摘花の背中に、皇后は続けて命令した。
「早くここから出て行きなさい!二度と私や聡影の前に顔を見せないように!」
「…?」
「皇后様、落ち着いてくださいませ。この子が何をしたというんです」
「班夫人の言葉に惑わされないでくださいませ」
「惑わされてなんかいません!そうではないのよ、この子が阿周を知っている、それだけで私の目の前から消え去るには十分な理由なのよ!」
「皇后様、阿周さまとはどなたでございますか」

 侍女の一人が摘花の腕をつかみ、ひとまず部屋から出してくれた。
 そのときちょうど、聡影と光賢が連れ立ってやってきたのだ。
 二人とも騒ぎに驚いたようだったが、聡影がすぐにまず摘花に尋ねた。
「母上はどうなさったんだ。いま班夫人の姿を見かけたが、そのせいか」
「わかりません」
 摘花は首を振った。
「ただ、わたしが阿周さまを存じていること、それがお気にさわったようで…。班夫人が、急にそれをおっしゃったんです」
「……」
 聡影は、何も言わずに母后へ目をやった。
 光賢が心配そうにつぶやく。
「皇后様は一体どうなさったんだ。あんなにお気が高ぶっていらっしゃるなんて、母上がまた何かよほど変なことを…?」
 摘花は首を振った。

 そんなに変なことを言ったとは思えない。
 ただ、阿周のことだけなのだから。

 阿周は死んでなどいない、元気で生きている、と。
 たわごとといえば、これ以上はないほどのたわごとだ。

 いったい…?

「聡影!」
 皇后の声がする。
「いつまでその娘と話しているんです!その子はもう実家に帰します、二度と接してはなりません!金輪際!」
 聡影はそれを聞きながら、摘花に声をかけた。

「ひとまず私の部屋に行っていなさい。場所はわかるだろう?」
「はい…」
「迷子にならないように」
 聡影はそう言って笑ったが、摘花は笑みを返すことはできなかった。
「兄上、では私が連れて行きますから」
「ああ、頼む」

 聡影は弟に摘花を託すと、自分は母后のそばに向かい、他の者は全員部屋の外に出した。
「趙修令が来たら、彼だけは通してくれ」

 光賢に連れられて、聡影の住んでいる建物にやってきた摘花は、聡影の私室だという部屋に通された。
「ここで待っていれば兄上もすぐにいらっしゃるだろう」
「はい…」

 道中ずっと黙りこくっていた摘花を心配して、光賢は椅子に座るよう言ってくれたが、摘花は遠慮した。
「ではせめて何か飲んだほうがいい。すぐに持ってこさせるから」
「ありがとうございます。お気持ちだけで結構でございます」
「いや、気持ちだけなんて、それでは後で私が兄上に叱られてしまう」
「…?」
「兄上は、おまえのことを本当にかわいがっているから。それがよくわかるから」
「……」

 光賢は、遠慮する摘花に無理に席を勧め、お茶も運ばせた。
 摘花は、それならと椅子には浅く腰を下ろしたが、飲み物には口をつけなかった。
 光賢もそれ以上はもう無理強いはしなかった。

「それで、今は一体どうしたんだ」
「わからないんです…。ただ、わたしが趙修令さまのご子息を存じていること、それを班夫人がおっしゃったら、皇后様はお人が変わったようにお怒りになって…」
「趙修令の息子?」
「はい、阿周さまとおっしゃったのですが…」
「それを、おまえが知っていると?」
「ええ。昔、趙修令さまが地方にいらっしゃるとき、父はその部下だったんです。その際、たまたまわたしはその阿周さまと知り合いまして、ずっとかわいがっていただいたんです。ですが、お小さいうちに亡くなってしまって…」
「その阿周のことを、おまえが知っていること、それで皇后様はお気が高ぶったと?」

「はい。よくわからないんですが…。ただ実は、宮中に上がるに際して趙修令さまから、阿周さまのことは皇后様には話さないようにと言われていたんです。
阿周さまは生きていらしたら聡影さまと同い年だそうで、亡くなったときに皇后様はとてもお嘆きになってくださったそうなんです。そして今でもなお悲しんでくださっているそうなんです。
こういう不安定なご気分のときに、阿周さまのことをお話しして、不必要に悲しませてはいけないと趙修令さまが…。でも、今の皇后様のご様子はとてもそうではございませんでした。ただただ、お怒りで、不愉快そうで…」

「……その阿周は、何歳のときに死んだんだ?」
「十歳のときです」
「十年前か。……いや実は」
 光賢は、言葉を選びながらゆっくりと口を開いた。
「母上の弁。兄上が入れ代わっているという母上の珍説。母上いわく、病弱な本物の兄上は、兄上が十歳の頃、生死の境をさまよった際に命を落とされたと。それで、皇后様は別の子を身代わりにしようとし、同い年だった趙修令の子を連れてきたと」
「え…?」
 摘花は目を丸くした。
「つまり、今の兄上は、本当は趙修令の息子だと言い張るんだ。つまりは、じゃあその阿周だ」
「そんな…いくらなんでも、それは…」

 信じられない、と摘花は思った。
 だがすぐに、その話だといろいろとつじつまが合うような気がしたのだ。


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