ひとまず安心
「スミッ、こっち!」
場所は、覚えてる。大丈夫。近くだからきっと逃げ切れる。すぐそこ。人を避けながら走る。できればスミに先に行ってほしいけど、スミは場所を知らないし、走りながら説明する余裕がない。
時々、並木先輩との距離を確認する。諦める、もしくは飽きてくれればいいのだけれどそんな様子はない。余裕綽々って感じで、すごく怖い。
あともう少し。次の角を曲がったら。
もう一度、振り返る。笑みが消えていた。どこに向かってるのか気づかれた。ヤバい。速度が上がった。
速く。角を曲がる。
「………あ」
イチさんだ。
店の前辺りにイチさんがいた。こっちに気づいて、驚きの表情を浮かべる。そして数秒の間のあと、状況を把握したのだろう、ドアを開けて待ち構えてくれた。
「イチっ!」
並木先輩の声が聞こえる。追いつかれる。力を振り絞って、店内に転げこむ。両手を床につく。肩で息をする。立って、られない。
「うお。どした?」
「………はぁ、はぁ………はっ」
こんな、必死に走ったの、初めてだ。口から心臓が飛び出そう。気持ち悪い。てか、動悸がすさまじいことになっている。
不意に、靴先が視界に入った。顔をあげる。スミがいた。呼吸は乱れているけど、まだ余力がありそうだ。あまり見ない表情をしている。
「何で止めた」
おぉ。怒っている。
「………止めるに………決まってる、だろ」
「一方的にあんなことされて、ただですませられるわけない。オレがあんな奴にやられるとでも………」
「オレはっ」
言葉を振り絞る。ぐっとスミを睨み上げた。
「スミが人を殴るのも、殴られるのも嫌だっ」
「だからって………っ」
言いかけて、スミは唇を噛み締める。視線をそらされた。やがてゆっくりと、苛立ちを抑えるように息を吐き出す。
「………わかった。納得は、してないけど、今回は抑える」
良かった。
「終わった?」
「あ、すみません」
気楽な感じでリュウさんに声をかけられた。
まだ少し辛いけど、どうにか立ち上がる。店内に他に人はいない。休みだったのだろうか。だとしたら、中に入れて本当に良かった.………って、
「あ!」
イチさん!
イチさんの姿がない!ドアは閉まってる。まだ外だ。ヤバい。並木先輩に殴られてたらどうしよう!
勢いよくドアを開く。
「………………」
パタン。と閉じた。
………………あれ?
いまいち自分の目にしたものが理解できない。眉をひそめたスミが、ドアを細く開けて外を覗いた。しばらく様子をうかがってから、閉じる。
「仲良くしゃべってる」
うん。オレにもそう見えた。
位置的にイチさんの表情は見えなかったけど、並木先輩はめちゃくちゃ楽しそうってか、嬉そうってか、目をキラッキラにして話してた。
万里先輩相手でも嬉しそうに話してるのを見たことあるけど、でも、何か、ちょっと違った。何てか、少し恥じらいがあるみたいな感じだった。気持ち悪い。
「………西田君。怪我、大丈夫?」
「あ、そうだ。ニシ、頭大丈夫?」
「………言い方」
「うん。わざと」
そうか。まだ怒っているのか。
リュウさんがおかしそうに笑ってる。
「救急箱持ってくるから、適当に座って待ってな」
「あ、すみません」
思い出したら、ホッとしたからかもしれないけど、じんじんと痛みだした。走ってた時は全然気にならなかったのに。
何か首が気持ち悪くて触ったら、血がついた。うわぁ。ここまで垂れてるのか。服についたら困ると手で拭おうとしたら、横からハンカチを押し当てられた。
「それじゃ広がる」
「いや、でもシミになる」
「もうついたから。それにニシ、どうせハンカチとか持ってないでしょー」
「う」
下から順々に拭われて、傷口にたどり着いたところでハンカチを受け取った。傷口をおさえたまま、とりあえずすぐ近くの席に腰を下ろす。このハンカチ、洗ったところでもうダメかもしれない。どんどん血を吸い込んでいってる気がする。
「ここがさっき言ってたお店?」
「うん」
「ふぅん」
興味深そうにあちこち眺めている。オレはドアの向こうが気になって仕方ない。
イチさん、大丈夫だろうか。いや、大丈夫そうではあったんだけど。でも並木先輩って急に気分上がったり下がったりするみたいだし。何か不安だ。
そもそもなんであんなにブチキレてたんだろう。最後に会ったのは昼一緒に食べた時で、その時は万里先輩のお陰で機嫌良くなってたのに。本当に訳がわからない。
………イチさん、本当に大丈夫かなぁ。
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