金曜の夜の約束
間違いを犯した気がしてならない。
風呂から上がっても、シキはソファに座っていた。ただ静かに自分の手のひらを眺めている。
声をかけることも近づくこともできずにいると、やがて何かの感触を確かめるかのようにそっと手を握りしめていた。
先に寝てろと言われた。シキはソファに座っている。だからきっと、昨晩のようにベッドでということで良いのだろう。けれど。
確認でも何でも良い。おやすみの挨拶だけでも良い。たった一言、声をかけたくて。でも動くことができない。
このまま突っ立ってても風邪をひくだけ。まとわりつく思考を振り払い、黙って寝室へと向かった。
昨晩は二人で入ったベッド。今朝は広く感じたけれど、今はより広く感じる。冷たいシーツにくるまって睡魔が訪れるのを待つ。
閉じた瞼に浮かぶのは、ソファに座っている人の姿だった。
「椿。すまないがそこの辞書を……椿?」
「……え?……あ、何?」
「辞書をとってくれ。………悩みでもあるのか?やけに気がそぞろになっているが」
「悩みって程の事じゃないよ」
少し気になることがあるだけ。
辞書を手渡しながら曖昧に答える。桜子ちゃんは受け取った辞書を開かず、テーブルの上に置いた。
シキが月都に勉強を教えている。前に言っていた家庭教師と言うのはこの事だったらしい。ついでとばかりに一緒に九頭竜家を訪ねて、桜子ちゃんと勉強したりするようになった。
「はっきりしないな。悩みがないなら集中しろ。あるなら聞いてやるから話せ」
言い切る姿は眩しいほどに真っ直ぐで好感が持てる。それと同時に困ったなとも思った。わざわざ言うほどの事ではないし、うまく言葉にできる自信もない。
当然の事を言われただけ。関係のないことを関係ないと。だから気にする必要も、ましてやその影響で気が散るはずもない。
何もないのだから。
「ありがとう。じゃあ集中するよう気を付ける」
「そうか」
一瞬眉を寄せるも頷いた桜子ちゃんは、ようやく辞書を開いた。それに倣って自分も手元のプリントに視線を下ろす。
そのまま所々教え合い、予定していた範囲を終える。お茶を飲みながら雑談することしばし、勉強を終えたシキと月都が部屋から出てきた。
「お疲れ。今、お茶を入れるからゆっくりしていけ」
「いや。もう帰る」
「話があるから言っている。座って待っていろ」
シキから空になったティーセットを受け取り、桜子ちゃんは残るように言う。有無を言わせずシキをイスに座らせると、自身は一度台所へと向かった。
「お疲れさま」
隣に座った月都に声をかける。すると、何やら難しい顔してこそこそと話しかけてきた。
「……なぁ、シキ、何かあったのか?」
「何か?」
「だって、何か今日おかしいんだ。じっと手を眺めたりしてて。機嫌も悪そうだし」
「……あぁ」
昨晩の姿が思い浮かんだ。
サエさんとの会話の事について思い悩んでいるのだろう。やっぱり、言わない方が良かったのか。それとも、関係ないのに訊ねたりしたから不快にさせてしまったのだろうか。
「………椿?」
「………ん?……あぁ。さぁ?オレは何も知らないから」
「………そっか」
なぜか月都が不安そうな表情をしている。安心させようと笑みを浮かべて見せたら、余計泣きそうになってしまった。どうしたのだろうか。
「………大丈夫か?」
「何が?」
それはむしろこっちの台詞なのだけれど。
「何がって…な、何となく?」
「変なの」
小さく笑うと、月都はムッとしてそっぽを向いてしまった。
大丈夫。心配されるようなことは一つもない。
胸が苦しく感じるのだって気のせいのはず。喉の奥に燻る何かを飲み込むように、お茶に口をつけた。
「待たせたな」
「……で?話は?」
台所から桜子ちゃんが戻ってきた。シキは受け取ったお茶を一息に飲み干す。訊ねる顔には不機嫌だとありありと書かれていた。
「何、来週の金曜に月都の面倒を見てほしいだけだ」
「あ?」
「正確には夕飯を共にしてくれれば良い」
名前の出てきた月都を見ると、複雑そうな表情で会話の行方を見守っている。シキが、そんな月都をちらりと見てから桜子ちゃんに視線を戻した。
「何でだ?」
「文化祭の追い込みでな。遅くなる。母もその日は帰ってこない」
「だからなんだよ」
「一人で食事をとっても味気ないだろ。だからだ」
眉間の皺を深めたシキが、月都をまっすぐ見据えた。月都の肩が一瞬、びくりと揺れる。
「月都。お前はどうしたいんだ?」
「……っ、オレは……別に飯くらい一人で食えるけど…でも、シキが良いなら一緒に食べたい」
「………椿」
「ん?」
すっとこちらを向いたシキと視線が合う。一瞬、そらしてしまいたい衝動にかられたけれど、どうにか受け止めた。
「お前は?」
食事を作るのはオレだから、確認の意味での問いなのだろう。僅かに首をかしげて答える。
「三人分くらい、問題ないよ」
けれどシキはその返答に、眉をしかめた。よく理由がわからなくて首をさらにかしげる。何かを言おうとシキが口を開いたけれど、それは途中でため息に変わった。
「………わかった」
「いいのか?」
「ああ。好きにしろ」
「礼を言う。なに、タダでとは言わん。そうだな。誕生日に多少は志渡の足止めをしてやろう」
「多少かよ」
「ああ」
諦念を滲ませたシキの了承。桜子ちゃんは当然だとばかりに口角を上げた。
「……誕生日」
小さくこぼれた呟きは、誰の耳にも届かなかったし無意識だった。誕生日なんて知らない。何も、知らない。それは前にも思ったことで、その時よりは知っているけれど、それでも。
前に、イベント毎に押し掛けてくるようなことを言っていた。きっと、誕生日には祝いに来るのだろう。でも、シキはそれを良しとはしていなくて。
だから桜子ちゃんは足止めをと言っているのだろう。そして、ほっとした表情をしている月都も多分その事を知っている。
オレは、それがいつだかも知らないのに。
いいな。
ぼんやりと浮かんだ考えに、気付かれぬよう頭を振る。
桜子ちゃん達は親戚で、家を行き来するくらい仲が良い。一方のオレはただの居候。羨ましいなんて、思う理由も立場でもないはずなのに。
打ち消そうとすればするほど、いいなという言葉が胸に溢れる。
「椿。帰るぞ」
「………え?」
「………帰らねぇのか?」
「あ……ううん。お邪魔しました」
不意に声をかけられ我に返る。不審そうにしているシキに答え、慌てて立ち上がった。それから一つ思い出して、月都に話しかける。
「そうだ。夕飯、食べに来るんだったら、食器持ってきてね」
「え?」
「ん?」
「あ?」
三方から同時に疑問の声が上がった。え?何この反応。不思議に感じて見回すけれど、なぜか皆ポカンとしていた。
「え?」
訳がわからず首をかしげると、真っ先に桜子ちゃんが口を開いた。その肩はなぜか笑いを堪えるために振るえている。
「いや。そうだな。普通はそうだよな」
「………シキ」
「………持ってこい」
恐る恐る呼び掛けた月都に、シキがムスッと答えた。途端、月都の顔が嬉しそうに輝く。
「帰るぞ」
「あ、うん」
「では、来週の金曜、頼んだぞ」
「………」
状況が理解できないまま、シキの後について部屋を出る。マンションの廊下を、シキの背中を追うように進む。
「食器、ないよね?」
「ないな」
短い返答に、更に首を捻る。
本当に、わからないこと、知らないことだらけだ。
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