穴
何かテンション高い気がするのだけど、どうなのだろう。良いことでもあったのかな。
大学から帰ってきたシキはやけに上機嫌で、戸惑ってしまう。昨日も様子はおかしかったけど、ベクトルが正反対。まぁ、不機嫌でいられるよりはいいのだけど。でも何だかな。
洗い物を終えてリビングに行く。シキはソファの上で写真集に目を落としていた。楽しそうに。
釈然としないものを抱えたまま隣に座る。温かいカップを両手で包み込み、背もたれに背を預ける。
サエさんに、フォローをと頼まれたけれど、必要なさそう。
必要、ないよね。機嫌が良いのだから、わざわざ思い出させることなんて。何を言われたのか、気になっているけれど。
チラリと、横顔を盗み見る。
起きた時、シキはすでにいなかった。自分がどこで寝ていたのか、寝ぼけた頭では理解できていなかった。それでもいないということだけはわかって。
どこにいるのだろうと、家中探し回っても見つけられなくて。ソファで休んでようやく自分が探していたのはシキなのだと思いいたった。
時計を見ればすでに昼近く。今日は大学のある日なのだから、この時間にいるわけなどない。ないのだけど。
しばらく秒針を見るともなしに眺めていた。やがてゆっくり頭を振って立ち上がる。流しに洗い物があったのを思い出したからだ。
多分、シキが自分で朝食を用意していったのだろう。作れなかったと、そんなことを思いながらまずは洗面所に向かった。
洗い物をして、軽く掃除をしていたらサエさんから呼び出しがあった。シャーウッドで話をして、戻ってしばらくしたらシキが帰ってきた。
楽しそうなのは良いことのはずなのに、なぜか良い気がしない。何があったのだろうと、そればかりが気になる。
シキから視線を外して、カップに口をつける。
パラッと、ページを捲る音が時おり聞こえる。チッチッチッと秒針が時を刻む。会話はなく、ただ並んで座っているだけ。
ゆっくりと時間をかけてカップの中身を減らしていく。
何をするわけでもなく、考えるわけでもなく、まったりと過ごす。相変わらずシキは上機嫌で。その理由はわからなくて落ち着かないけど。
それでも、隣にある温もりが心地よいから。
いつものように、静かな食後。やがて、シキがパタンと写真集を閉じる。ついその音に反応してしまい、視線を向けた。
立ちあがろうとしていたシキと目が合う。
「どうした?」
ん?と返事を促してくるシキはなんだかいつもより優しげで。訳のわからない上機嫌から来るその態度は少し居心地悪い。
何でもないと答えて、カップに視線を落とす。シキが再び腰を下ろし、背もたれに体重を預けたのが気配でわかった。
すぐ横の体温がいつもより気になって仕方がない。気を落ち着かせるために、小さく息を吐く。
何でも良い。何でも良いから話をしたかった。
「………今日」
「ん?」
「サエさんに会ったんだけど…」
「………」
そっと隣を見ると、シキは苦虫を噛み潰したみたいな表情になっていた。
「………シキ?」
「………お前ら、本当仲良いよな」
「ん?うん」
何を言っているのだろうと首をかしげる。前にも似たようなことを言われた気がするけども。
「………ほどほどにしとけよ」
「ん?」
「悟」
「あぁ…」
確かに付き合ってる相手が別の異性と親しくしていたら、良い気はしない。いくらあり得なくても、向こうからしてみれば関係ないだろうし。
それに、子供の頃とはいえ‘三十過ぎてもお互い相手がいなかったら結婚’なんて約束をした相手は目障りのはずだ。結婚を前提にと付き合い始めたのだからなおのこと。
「うん。大丈夫だよ」
サエさんと離れるつもりはない。けれど、サエさんが交際に是と答えたなら邪魔をするつもりもない。だから迷惑にはならないよう気を付けてるつもりだ。
本当かよと疑いの眼差しを向けるシキには、苦笑で答える他ないけど。
「………まぁ、いい。で?」
「ん?」
「会って、どうしたんだ?」
「あぁ…えっと」
言う必要は、多分もうない。でも、サエさんに伝えてと言われて了承したし。何も知らないから、勝手な判断はできないし。今は良くても、後々尾を引くようなことかもしれないし。
多分、必要ないけど、でも。
じっと、シキを見つめる。
「伝言を、頼まれて」
「伝言?」
「うん」
何となく言いにくくて、唇を湿らせてから口を開く。
「………昨日、余計なこと言ったって」
「………」
「気にしなくて良い。関係ないからって」
僅かに見開かれたシキの瞳から、次第に色が消えていく。その変化に不安が煽られる。何か言わなくてはと焦るほどに、言葉が浮かばない。
「それで?」
「それだけ、だけど…」
じっと見つめてくる眼は、意図を探ろうとしているように思えてならない。本当に、二人で何を話していたのだろう。これほどまでに警戒されるなんて。
きっと、オレには関係のないことなのだけど。
ふいに、シキが視線をそらす。ソファにより身を沈め、深く息を吐いた。その姿を見つめる。
訊かなくても返事はわかってる。それでも。
「………何を、言われたの?」
「関係のないことだ」
あぁ、やっぱり。
自嘲気味に告げられた言葉。見ていたくなくて、俯く。視界にあるのは中身の少なくなったカップだけ。所在なさげに動く指が表面を撫でる。
「………椿」
「………ん?」
「先、風呂入って寝てろ」
「………ん」
視線は交わらないままの会話。一呼吸おいて返事をし、もう一呼吸おいて立ち上がった。
別に、関係あると言ってほしかった訳じゃない。近すぎず、遠すぎない距離感が心地よかったのだから。
それはつまり、深く関わるつもりはないというわけで。だから、ああ言われるのは当然の事のはずなのに。
どうして、心に穴が空いているのだろう。
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