‘絵’
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鳥肌が、立った。
何、これ。こんなの知らない。見たこと、ない。
目を反らすこともできずに、ただ立ちすくんで、その絵を見つめていた。
暗闇に浮かぶ人物が、足を崩して座っている。肩に掛けた紅い衣が、地面の上に広がっている。華が、衣から零れ落ち、散らばっている。
壊れた燈籠には転がっているだけ。周りは暗闇に包まれていた。それも、全くの黒ではなく何か別の色が混ざっている。だから余計に、闇が深い。
和装のその人は、顔を僅かに伏せていて表情を正しく認めることは叶わない。それでも、痛いぐらいに感情が伝わってくる。
何、これ。
この絵を書いたのがシキだということも、モデルが自分なのだということも抜け落ちた。
動けない。
呼吸が、時間が止まる。
目が、離せない。
どうして、なのだろう。ただ白い紙の上に絵の具を重ねているだけなのに。惹き付けられる。引き寄せられる。心が、引きずられる。胸が、ざわめく。
空気を、描きたいと言っていた意味がわかった。何か、違うものを見ているように感じた理由が、わかった。
ふっ…と、隣に人の気配がした。
それでも、視線は絵から外せず、見つめ続けたまま。
「……どうだ?」
すっかり耳に馴染んだ、穏やかな声。何か答えなくてはと、ぼんやり思ったけど。
でも、言葉で表すことなんてできなくて。
「……何か、別人みたい」
絵の中にいるのが自分だなんて思えない。全く違うことを答えていた。
「だな。本物には及ばない」
そういうことを言いたかったんじゃない。むしろ逆なのに。訂正しようとして、けれど自分の絵を難しい表情で見つめている横顔を目にしたら、何も言えなくなった。
「まだまだ、だ」
そんなことない。
そう、言いたかったけど、不意にこちらを向いた穏やかな表情に唇を食む。
シキの目指すところを知らない。だから、何も言えない。
納得できていないって、まだまだだって。こんなものを描いておきながら。一体、どこまで行くつもりなのだろう。
本物には及ばないって、シキには、オレがどう見えているのだろう。
「もう他見て回ったか?」
「……ま、だ」
掠れた声で答えれば、シキはフッと笑った。
「行くか?」
「の、前に、風に当たりたい」
無性に、外に出たかった。絵に、当てられた。だから、外の風に触れて、目を醒ましたい。
「飯は?」
「も、まだ」
「なら、外で食うか」
そう言って踵を返したシキの背を見つめる。どこへ、行くのだろう。どこまで行くつもりなのだろう。
ゆっくりと頭を振り、思考を追い払う。最後に一目だけ、絵に視線をやって後を追った。
なぜか追いかける背が遠く感じた。それを、寂しいと感じるなんて、そんなわけ。
らしく、ない。
シキが何を目指していようと、どこへ行こうと、関係などないのだから。どうこう思うことなどないはずなのに。
隣を歩くシキ。
いつまで、こうしてられるのかなんて。そんなこと。
「何か食いたいもんあるか?」
「何でも、いい」
「……どうした?」
「………え?」
「何か、あったか?」
尋ねてくる声は楽しそうなもの。何でか、なんてわからないけれど。
「何でもない、よ」
「ほぅ?」
軽い声色は、こちらの言葉を信じてはいない。確かに、何でもなくはないけれど。でも、説明なんてできない。
自分でも理解できていないのだから。
触れたいと、唐突に思った。
そしたら、この胸のざわめきが少しでも収まるような気がして。そんなわけ、ないのに。できるわけ、ないのに。
隣を歩くシキに、指先をのばしたくなるなんて。はぐれてしまわぬよう。
「おら」
「……ありがとう」
プラスチックの容器に入った豚汁を渡された。包み込む手のひらが、じんわりと温かくなる。促されるがままに、花壇の縁に腰かけた。
「ん」
割り箸を、渡される。隣からパチンと割る音がした。容器を膝の上に載せたまま、ぼんやりと立ち上る湯気を眺める。
って、ん?
「あれ?」
「ククッ」
触れる豚汁の温かさになのか、頬を撫でる外気の冷たさになのか、ここにきてようやく我に返った。
膝の上の豚汁と、隣で肩を震わせているシキとを見比べる。いつの間にと思ったけど、きっと楽しませるだけなので問いかけはしなかった。
小さく息を吐いて、割り箸を割る。
「……いただきます」
「ああ」
汁をすすると、身体の中も温まる。素朴な味わいが美味しい。けど、隣からじっと視線を感じる。そっと見れば、自分の器に手をかけずにこちらを向いているシキ。
楽しそうに。
「……食べないの?」
「いや?」
食べると答えたくせに、体勢を変える気配は全くない。数口、箸を進めたけど、何か気になる。
「……何?」
「別に?」
そう言って、今度は豚汁に箸をつけた。そう言えば、何でシキがここにいるのだろう。まぁ、落ち着くからいいんだけど。
黙々と食事をして、一息ついてゴミを捨てようとしたところで、横からのびた手が容器を持っていった。
「あ」
「そろそろ行くか」
「え?」
「ん?」
立ち上がったシキの言葉の意味を取り損ねて、思わず声が零れた。
「…どこ行くの?」
これじゃあ、まるでいかないでほしいみたいじゃないか。
「まだ回ってねぇんだろ?」
「え?」
「もう帰るのか?」
「いや。見てくけど…案内してくれるの?」
「ヒマだからな」
受付の当番とかないんだろうか。それとも今日はもう、終わったのかな。一人では回りずらかったから、助かるけれど。
じっとシキを見つめて、それから腰を上げた。
「……四季崎、ふみ、のり?」
「いや」
案内されたのは、授業での展示をしている部屋。見せられた絵の下には、名前がきちんと張ってあった。
‘四季崎史規’
さっきの所にも名前は書いてあったのだろうけど、記憶にない。照明は暗めにしてあったし。グロテスクな絵があったり、骸骨の山があったりで気をとられていた。
それに、肝心のシキの絵に圧倒されてしまって、名前を確認するどころじゃなかったのだ。
だから、フルネームを見るのはこれが初めて。
上二人の名前を考えれば、‘ふみのり’ではないことは分かる。でも、それに合わせた読み方って。
「……四季崎、シキ?」
「……………」
返事はない。けれど憮然とした表情を見れば間違いではないのだろう。答えたくないのか。
ふぅと姿勢を正して、もう一度名前を見る。
‘四季崎史規’
今更ながらに、どうして気付かずにいられたのかが疑問だ。
親戚であるマスターや九頭竜の人たち。挙げ句が兄である志渡さんまでがシキと呼んでいたのに。
苗字を縮めた呼び方であるわけなかった。
「皆‘し’で始まる二文字なんだね」
その癖、漢字はバラバラ。
「あぁ。お前んとこは共通点ないよな」
「うん」
奈美江と友也だから全く関係ない。親の名前から一字とってと言うわけでもない。
どういう由来だったんだろうか。少し気になったけど知る機会は、多分ない。
考えても仕方がないと、意識をシキの名に戻す。
「四季崎、史規」
「あ?」
「史規」
その語感を確認するように呟いていたら、シキの笑う気配がした。
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