改めてご挨拶
湯飲みを洗い、コーヒーを淹れる。リビングに戻ると、椿がすでに戻っていた。ソファの上で仰向けに寝転がり、目の上に片腕を置いている。
「帰ってたのか」
「………」
返事はない。傍らのローテーブルの上に座る。カップを横に置き、その姿を眺めた。
ゆっくりと上下する胸。華奢な体型。細い首筋。白い肌。黒い髪。疲れきったかのように休んでいる。
そっと、手を伸ばしてみた。
「シキ?」
触れる寸前に名を呼ばれ、動きが止まる。咎められたかのようなタイミングに、居心地が悪くなった。
「何だ?」
手を戻す。
「……兄弟って、いる?」
「あー…上に二人。兄がいるな」
椿は腕で目を塞いだまま問いを重ねる。
「仲、良い?」
「いや」
「そう…どんな人?」
「下の奴は二コ上で、今大学四年。何専行してるかは忘れた。来年、院に進むんだと。で、上の奴は…」
どう説明したものか。
「……少し年離れてて、父親の跡、継いでる」
「……そう」
全く紹介になっていないが、椿は気にする素振りを見せない。話を聞きたいわけではないようだ。
「………お前は?」
「…オレはね、姉が一人いるよ。さっき話してた奈美江」
「音大の?」
「うん」
淡々とした声が、静かなリビングに響く。
「小さい頃からピアノ好きでね、ずっと習ってる。偶に、学校の音楽室で聴かせてもらってるんだ。すごく綺麗だよ。でも、友達に誘われたバンドではボーカルやってて、毎年、学祭でライブやってる。結構人気あるよ」
「………仲、良いのか?」
「………うん…昔はよくいじめられたけど、今は優しい。でも、留年したって言ったらすごく怒られそう」
「当たり前だ」
クスリと、小さく笑う気配がした。
「そだね」
例えば、姉とは一緒に暮らしてないのだろうかとか。
例えば、どうして従兄弟の家にいるのかとか。
疑問はいくつかあるけれど、訊くつもりはなかった。今の近すぎない距離が心地好いし、知ってほしければ自分から話すだろう。
何より、正体がバレたら出ていってしまうと相場が決まっているのだ。雪女しかり。鶴女房しかり。
「そういや、さっきの何だったんだ?」
「…ん?」
「わがまま」
些細なことだが‘これは’ではなく‘これが’という言い回しが妙に気になった。
「……あぁ、オレ、ずっとイイコにしてたから、だから、よく、わがまま言えとか、甘えろとか、言われてて…」
段々と、声が間延びし、小さくなってくる。ほとんど消え入りそうな声に耳を傾けていた。
「…それで、そのわがままを、今日、使った…わがまま、言えって…言ったのは、向こうだから…きいてくれると、思って……どうしても、ここに…いたかった…から…」
狙い通り、効果はてきめんだったわけか。
「………シキ?」
「………ん?」
「………」
「椿?」
名を呼ばれたが、続く言葉はなかった。よく見れば安らかな寝息をたてている。疲れたのだろうか。
別に暮らす家族よりは、共に暮らす親戚の方が心安いと思うが、こいつは違うのだろうか。
それとも、無理矢理連れ帰られるかもしれない不安や恐怖があったのだろうか。そうならいい。
立ち上がるついでに、薄いタオルケットをかけてやった。
音はしていない。振動もしていない。それでもピコピコと光っている。携帯が。サブディスプレイには‘左京’の文字。電話だろうか。左京って来るはずだった奴だよな。
「シキ?どうかした?」
「いや、携帯」
「ん?…あぁ」
夕食を終え食後のコーヒーをと思いリビングに入ると、椿の携帯が光っていた。後から入ってきた椿は、大して慌てもせずのんびりと携帯に出る。
「もしもし?……うん。大丈夫。……うん」
話ながらベランダに向かう。ガラス戸に手をついた所で動きが止まった。その姿をソファに座ったまま眺める。
「うん?……あ、まだ…ちゃんと自分で言うから…ん。わかった……うん、ちょっと待って」
振り返った椿が戻ってくる。
「シキ、左京がシキと話したいって」
「………」
差し出された携帯を無言で受けとった。
「………もしもし?」
―――もしもし?初めまして。七里塚左京といいます。
ひどく、穏やかな声が電話口から流れてきた。
―――えっと、シキ君?
「………あぁ」
―――今日は急に別の人間がお邪魔する事になってしまい申し訳ない。事前にきちんと連絡できていれば良かったのだけれど…
「………いや」
―――しかも忍がずいぶんと失礼な物言いだったらしく、本当に申し訳ない
「………気にしないで下さい」
電話の向こうとこちら側。両方で小さく笑う気配がした。隣を見ると、椿はコーヒーに口をつけている。
―――ありがとう。友也の事も。色々お世話になったみたいで。迷惑じゃないとも言ってくれたみたいで…
「いや、それは……」
礼を言われるようなことではない。邪魔にならないのは事実だ。
―――本当にありがとう。甘いと言われるかもしれないけど、あの子にはなるべく好きにさせてあげたくて
「………」
―――悪いけど、もう少しだけ付き合ってやってくれるかな。もちろん、迷惑になったらすぐ帰してくれて良いから
「………はい」
―――友也の事、よろしく。良かったら今度、家に来てね。それじゃあ
「はい。それでは」
携帯を切り、息をついてから隣の存在を思い出す。見れば体育座りで、頭を膝の上に乗せこちらを見ていた。
「……あぁ、悪い」
勝手に切ってしまった携帯を返すと、大丈夫と首を横に振られた。それでもじっと見つめてくるので、眉をしかめた。
「何だ?」
「ん?何か、シキがかしこまってたから」
「………」
「左京、何て?」
「……お前の事、よろしくだと」
「……あぁ」
膝に乗せていた頭を一度持ち上げると、ペコリと下げる。
「よろしく」
「……こちらこそ」
大して心の込められていない言葉に、同じように適当に答える。下げていた頭を上げ、今度は首をかしげた。
「あ、そうだ。生活費」
「あ?」
「ちゃんと納めるね」
「必要ねぇ」
眉をしかめられたが気にしない。
「お前一人くらいどうってことねぇつったろ」
「そういうわけにはいかないよ」
珍しく真面目な顔をするので、居住まいを正して向き合ってみた。
「シキが気にしなくても、オレが気にする」
「………」
無言のまま、見つめ合う。
「………わかった。好きにしろ」
「うん。好きにする」
ため息と共に折れれば、満足そうに微笑まれた。まぁ、良い。これでもうしばらく、こいつはここに居ることが決まった。
まだ、好きな時に描くことができる
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