闇の先には
闇の先には E
「桃香様、どうかされましたか?大丈夫でございますか」
一瞬体が傾いた桃香を慌てて瑠璃が支えた。
「ん………」
桃香は軽く肩を揺すぶられうっすらと目を開けた。
遠退きかけていた意識が呼び戻され、暗くなった視界が明るさを取り戻す。
桃香は「ハァ…ハァ」と浅い息をを繰り返した。
あぁ…駄目…しっかりしなければ……あれは夢よ…
夢の中の人と似てるからって……動揺しすぎだわ…
必死に自分に言い聞かせ、目をあげた。
ネジ様に心配をかけてしまう…
そう思いネジの様子を伺うと、美しい客人の手を引き、その足元を気遣いながら歩いていて、桃香の今の様子に気付いてはいないようだった。
良かった…
桃香は安堵して胸を撫で下ろした。
それから心配そうに背を擦る瑠璃を振り返ると弱々しく微笑んだ。
「瑠璃、大丈夫だから…お前も後ろに控えていて…」
「……でも…」
尚も心配そうにする瑠璃の手に手を重ね、もう一度「大丈夫よ」と今度は力強く頷いて見せる。
瑠璃は諦めたように小さく溜め息を吐いた。
「ご無理はなさいませんように…」
小声で言い残し、瑠璃はスッと身を引き、桃香のすぐ後ろへと控えた。
と…その時。
ネジ様…?
同時にネジが屋敷の中へ視線を巡らせ、色素の薄いその瞳が桃香の視線とぶつかった。
途端、微かに眉根が寄せられる。
いくら取り繕ったとしても、明らかに青白くくすんだ桃香の顔色を、ネジが見逃す筈もなかった。
「あ………」
桃香はドキリとして思わず目を伏せた。
駄目…これでは訝しく思われてしまう……
慌てて顔をあげた途端、しかし再び険しいネジの視線に囚われて、今度こそ顔を上げることができなくなってしまうのだった。
気付かれたに違いない…と桃香は思った。
どうしてこうなってしまうの…
また失態を演じてしまうのかと情けなくなり、桃香は唇を噛み締めて身を縮めた。
「消えてしまいたい…」
震える声でポツリと呟くその耳には、玉砂利を踏みしめながら近づくネジ達の足音と、「お帰りなさいませ」と口々に言う使用人達の声が虚ろに響いていた。
「どうぞ此方へ」
「…ありがとう」
玄関の敷居を跨いだところで手を離し、翡翠がゆっくり屋敷の中へ足を踏み入れたのを確認したネジは、俯いたままの妻へと目を向けた。
「……桃香」
呼びかけても返事もせず、しゅんと萎れたその姿は、一層ネジの表情を険しくさせた。
まったく……
また無理をしたのかと不満に思いながら、ふと後ろの瑠璃へと目を移すと、瑠璃は心配そうに桃香の背を見つめていた。
やはりまた体調が優れないのだなと悟ったネジは、もう一度桃香の姿に目を戻し、その薄い肩に手をかけて、努めて優しい声で呼びかけた。
「…どうした、桃香」
「……あ…………」
優しくゆすられ、ピクリと肩を震わせた桃香は、そろそろと顔を上げてぼんやりとネジを見上げた。
そしてすぐに横に立つ客人を視界に捉え、はっとして居ずまいを正した。
「もっ…申し訳ありません…」
動揺を隠せない瞳がゆらゆらと揺れているのを見て、ネジは内心舌打ちしたい気持ちを何とか抑え込む。
「お帰りなさいませ、ネジ様。ご無事のお帰り何よりでございます」
「…あぁ。」
震える声で改めて出迎えの言葉を口にする桃香を、ネジは暫くの間見つめていたが、やがてふいと目をそらすと傍らの客人の背にそっと手を当てた。
「こちらは大名家の奥方、翡翠様だ。」
ネジに背をおされ、進み出た翡翠は、優雅に膝を屈めてお辞儀した。
「…ホホ……大名家の未亡人ですわ……もうこのまま廃れて行く身ですの……翡翠と申します。どうぞよろしく」
見上げる桃香の視線を捉えると、朱色の紅をさした唇の端がゆっくりとつり上がる。
口許は笑んでいても冷たく冴えた翡翠の瞳に囚われ、桃香の背筋に冷たい物が這いのぼった。
それでも精一杯の笑みを浮かべ、挨拶しようと口を開きかける。
ところがそれは、たいぎそうなため息と共に発せられた翡翠の言葉で、遮られてしまうのだった
。
「はぁ……ほんに疲れましたわぁ…何時間も馬車に揺られて…何だか目眩が…」
「大丈夫ですか」
弱々しく腕にすがり付く翡翠を抱くようにして支えるネジの姿に、桃香は息を飲んで身を強張らせた。
しかし直ぐに気を取り直し、屋敷の主の妻として役目を果たそうと瑠璃に指示を出す。
「瑠璃、早くお客様をお部屋に御案内して。少しお休み頂かなければ」
「……………はい」
どちらかと言うと客より自分の主人の方が気になって仕方がない瑠璃だったが、首を振って「早くしなさい」と伝える桃香に従い、翡翠が草履を脱ぐのに手を貸してその体を支えようとした。
が…
「嫌よ、ネジが案内して頂戴…真っ直ぐ歩けそうに無いわ…」
そう言うわりには強い力で瑠璃の手を払いのけた翡翠は、履き物を脱ぐネジの背にすがり付いた。
「…仕方ありませんね…。瑠璃、どの部屋を使うんだ?」
ネジはくっついて離れようとしない翡翠の腰を支え、瑠璃に先導するよう促した。
桃香様……
瑠璃は青ざめる桃香の顔を見て、複雑な表情を浮かべた。
この状況は桃香にかなりのショックを与えているに違いない。
何とか慰めなければと瑠璃は思った。
しかし、「行きなさい」と桃香に目で言われれば、渋々それに従うしか無いのだった。
「此方で御座います」
くるりと踵を返し先を歩き出した瑠璃の後を、ネジと翡翠がついて行く。
それを見送る桃香の表情は虚ろだった。
やはり屋敷内の噂話は本当なのではないか…
再びそんな不安に駆られ、懐妊の可能性に気付いた先刻に感じることが出来たはずの幸福感は、見る影もなく萎んでしまっていた。
「ネジ様…………」
遠ざかる背を見つめ、切なく名を呼ぶその声は、忙しく飛び交う使用人達の声に掻き消されてしまうのだった…………
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