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闇の先には
闇の先には D
来客の知らせを受け、準備に追われる使用人達が忙しく立ち働いていた。
慌ただしい雰囲気の中で使用人達を取り仕切る桃香の姿は、気品ある旧家の妻の物へと変わっていた。

「急がなくてはね、もうすぐお着きになるわ。粗相の無いようにしなければ…」
「はい。桃香様」

迎える客人が高貴な血筋の姫であれば、忍の里の名家たる日向家としても、それ相応の持て成しをしなければならない。
いかに急な事であったとしても手抜かりなど有り得ない、夫に恥をかかせるわけにはいかないのだ。

「瑠璃、客間に飾るお花は届いているかしら?」

桃香は屋敷の隅々を見回りながら、傍らに付き従う瑠璃に問うた。

「はい、先ほど山中花店に遣いをやりましたので、もうすぐ届くと思いますわ」
「そう。それでは後で私(わたくし)が客間のお花を活けます」
「はい」
「それから…」

二人が向かう先は台所。
急な来客に、台所もてんてこ舞いの忙しさだろう。

そういえば…

桃香は昼間に煮付けた鰊の甘露煮を思い浮かべ、内心溜め息をついた。

今日は味わって頂くことは出来ないわね…

いくら夫の好物とは言え、客人に振るうような豪華な料理と言うわけではなく、残念ながら今夜は諦めるしかないだろう。

里外での任務明けだし、もしかしたら少しばかりの休暇など有るかもしれない。
その時にでもまた作り直せば良いのだと、桃香は思った。


「美味しそうな匂いがしてまいりましたわ」

瑠璃が嬉しそうな声で言った。
台所へ近づくほど辺りには香ばしい匂いが立ち込めていた。

「そうね」

相槌を打ったものの、実を言えば今の桃香にとっては、料理の匂いは少しばかり辛いものだった。
毎日朝が一番胸のムカつきを感じるのだが、料理の匂いもまた鼻について仕方がないのだ。
それもこれも、世に言う『悪阻』と言う物の仕業であったとは、つい先程までの桃香にはまったく思いもしない事だった。
なにせ、病から来
る体調不良だとばかり思っていたのだから。


「皆ご苦労様です。突然の来客でさぞかし大変な事でしょう。材料は足りていますか?」

桃香は胃の不快感を顔に出さぬように努め、労いの言葉をかけながら台所へと顔を出した。

「まぁ!綺麗ね」

調理台の上には、すでに美しく盛り付けられた料理が並べられていた。

「素晴らしいわ。短時間の間にこのように沢山のお料理が出来上がるなんて。当家の料理人は里一の腕前に違いないわね」

皿の数々を見て回りながら、心からの賛辞の言葉をかける。
「それから…お酒は足りるかしら?供の者達にも振る舞うのだけれど…」
「十分な買い置きが御座いますよ」

料理番の返事を聞きつつも、台所から続く備蓄庫の方へ自らの目で確認しに行き、棚に並べられた酒瓶の数々に目を走らせる。

「そうね。十分足りそうだわ。また補充しておいてくださいね。」

、豊富な酒類を確認して満足そうに微笑む桃香に、料理番の女が任せて下さいと応じた。

「宜しくね。それから昼間に準備した鰊の甘露煮なんだけれど…」
「はい、美味しいお蕎麦も用意して御座いますよ」
ニコニコと答える料理番の女に、桃香は少しばかり寂しげに首を振った。

「今日は召し上がって頂けないと思うわ…またの機会にしましょう」
「えっ…は…はぁ。わかりました」

一緒になって残念そうな顔をする料理番に、では…と軽く会釈をした桃香は、屋敷内を一通りチェックし終えたことにホッとしながら、瑠璃を伴い台所を後にした。
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静かな室内に、芳しい花の香りが立ち込めていた。
花器を前に、優雅な手つきで届いたばかりの花を活けている桃香の顔は、醸し出す優美な雰囲気とは違い真剣そのものだ。

「これで良いわ…」

我ながら素晴らしい出来映えだ。
これならきっと旅で疲れた客人の目を和ませることが出来るだろう。
床の間に花器を飾り終え、今一度室内の設えに落ち度が無いか用心深く目を配る。
畳は張り替えてからまだ日が浅く、暫く誰の滞在も無かったため、綺麗な状態が保たれているし、窓も曇りひとつ無く磨きあげられていた。

「大丈夫ね。」

宴の準備に駆り出された瑠璃も、客人の出迎えに玄関先へと出る頃だろう。
そろそろ自分も出迎えに向かわなければ…と、桃香は立ち上がった。
が、途端軽い目眩に襲われ、慌ててその場に座り込む。
桃香は暫く目を瞑り、目眩が治まるのを待った。
急激に動き回ったせいでかなりの疲労感を感じ始めてはいたが、ここで音をあげるわけには行かなかった。
瑠璃からは、くれぐれも無理はしないようにと言われていたが、屋敷の主人の妻が客人も出迎えず休んでいるなど許されるわけがない。

「きちんと役目を果たさなければ…」

桃香は呟き、そっと腹部に手を当ててゆっくりと立ち上がった。

自分の役目をきちんと果たし、ネジ様に満足していただきたい。
そして和やかな雰囲気の中で懐妊の兆しがあることを知らせたい。

その思いが、気を抜けば倒れてしまいかねない、桃香のか弱い体を支えるのだった。


大名家の警護の者達に先導された二頭引きの馬車が、屋敷の門前に止まった。
若い未亡人の御忍び旅行だろうにそれなりに物々しい。
磨かれた板の間に優雅な姿で座る桃香は、開け放たれた玄関の両脇に並ぶ使用人達の向こうに、客人達一行の到着を確認した。そして直ぐに、無事の帰りを待ちわびた愛する人の姿を探し当てる…

「ネジ様…」

馬車の横に立つ白い忍装束を身に付けた夫の姿を見つけた桃香は、愛する人の名を呟きながら知らず頬を染めていた。
自分の目で無事確認できた事に安堵しつつ、直ぐにでも側に駆け寄りたい衝動を抑えて夫の様子をじっと見つめる。

「翡翠様。着きました。」

ネジは雇主の名を呼びながらゆっくりと馬車のドアを開けた。

「ほんに…長旅でしたわねぇ…」

のんびりとした口調で答えるその声は、何処か妖艶な響きを持っていた。

「…足元に気をつけて」

中から差し出された白い指先に、ネジは自らの手を差し伸べた。

「ありがとう」

白い指先がネジの手に預けられ、そろそろと馬車から出てきたのは、豪華な着物で着飾った美貌の姫であった。

あら…っ…あの方…

途端に桃香の中の五感がざわざわとざわめき出す…
そして…

「さぁ、こちらへ」

ネジに手を取られながら歩を進めるその人が、ゆっくりと顔を上げたその時、

「あっ…」

桃香は驚愕して声を上げた。

「まぁ…立派なお屋敷ですわねぇ」

のんびりとした口調とは裏腹に、ほんの一瞬意地悪な笑みを浮かべてちらりと桃香を見たその目は、冷たい光を放つ翡翠色…
金色に輝く髪に縁取られた色白で美しいその顔は、午睡の悪夢に現れたあの不気味な女そのものだった…






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