闇の先には 闇の先には @ 明かり取りから差し込む陽射しに、目覚めたばかりの桃香は眩しそうに目を細めながら、ゆっくりと褥から半身を起こした。 途端に襲いくる胃がせり上がるような不快感。 「っ…」 込み上げる吐き気に慌てて口元を押さえ、不快な波が去ってくれるのをじっと待つ。 あぁまたなのかと、毎日繰り返される症状に絶望感が込み上げる。 元々体の弱い桃香だったが、ずっと続いていた尋常じゃない暑さの余波か、秋めいて過ごしやすくなってきた今でさえ一段と体がだるく、胃の不快感に一日中悩まされていた。 いったい自分の体はどうなってしまったのだろう。 落ち着きを取り戻そうと浅い息を繰り返すが、胸に湧き上がる不安感を拭うことは出来ない… それでも、今朝はいつまでもグズグズしている暇などなかった。 今日の桃香は屋敷の主の帰りに備え、色々と家事を取り仕切らなければならないのだ。 いつも美しく整えられてはいるものの、今日は更に念入りに屋敷中を磨かねばならない。 なにしろひと月振りに主が帰ってくるのだ。 「ネジ様…」 桃香は幾分不快感の落ち着いた胃の辺りに手のひらを当てながら、艶やかな黒髪の、凛々しくも美しい愛する人を思い浮かべた。 心配でならない。 無事に帰ってきてくれるのだろうかと… とは言え、忍の世界の事はあまり解らない桃香ではあるが、愛する人がそう簡単に敵に破れるはずもない実力の持ち主である事は十分に理解している。 だからどちらかと言うとその類の心配は前ほどにはしてはいない。 と言うか…命の心配ばかりするのはネジの実力を疑うかのようで、余りに失礼な気がしていた。 故に心配と言えども今の桃香の場合… 不意に脳裏をよぎる女中達の囁き声。 「ネジ様…またあの未亡人の護衛任務ですってよ」 「え?また?定期的に指名するのね」 「大名が亡くなってからますます…」 「じゃあ、あちらの方のお世話も?」 「いやだ!またそんな下世話な事!ネジ様に限って有るわけ無いじゃない」 「だって、だってさ、命の恩人よ?嫁入り前にネジ様に命を救って貰って、数日山奥で褥を共にしたって。そのあと一時期…」 コイビトドウシダッタンデショ 偶然聞いてしまったクスクス笑いと噂話は、以来桃香を苦しめた。 たわいのない噂話だと、そう何度も自分に言い聞かせた。 だけど… 『コイビトドウシダッタンデショ。』 その言葉がどうしても桃香の心をざわつかせる。 実際、ネジからはとある要人の旅への同行だと聞かされていた。 お付きの者はいるにしろ、身辺警護をするネジはより身近にいるに違いない… もしかしたら、まだ密かに想い合っているが故に、この様な任務を度々重ねているのではないか… 下世話な考えが日に日に頭の中で膨らみ続けた。 愛する人の心は無事に自分の元へ帰ってくれるのだろうか… ネジを信じられない自分の醜い心が、一層桃香を苛んだ。 [次へ#] [戻る] |