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闇の先には
闇の先には A

かまどの上で小鍋が踊っていた。
コトコトと音を立て、甘辛い香りを漂わせているその中身は「にしんの甘露煮」。
白い割烹着を着た桃香が、心配そうに見守る使用人をよそに、鍋の中の具合を確かめていた。

「上出来だわ」

艶やかに煮上がったにしんに、桃香は満足そうに微笑んだ。
青白い横顔の中、うっすらと頬に朱が差している事にハラハラしていた使用人は、ホッと胸を撫で下ろす。

「桃香様。出来上がったのですね?」

安堵の色を滲ませた声で言いながら、青菜を刻む手を休めた使用人、料理番の女が、桃香の側へとやって来た。

「えぇ。美味しそうに出来上がりました。」

小鍋の蓋を持ち上げ、中が見えるようにした桃香は、はにかんだように微笑みながら、傍らの女を省みた。

「まぁ!本当に美味しそうだこと。これはネジ様もお喜びになりますよ。あとはうちの人が打った上等な蕎麦が有れば文句無しです」

女がチラリと目をやる先では、その夫である料理番の男が黙々と作業していた。
主の好物「にしん蕎麦」の為に腕によりをかけて蕎麦を打っているのだ。


「えぇ、そうね。美味しいお蕎麦をよろしくお願いしますね」
「勿論ですとも。さぁさぁ、今日は早朝から働き詰めで御座いましたでしょう?ネジ様がお戻りになるまで少しお休みになられて下さい。」

言いながら女主人の背に優しくふれた瞬間、料理番の女はぎゅっと眉をひそめた。
その、折れそうな程に華奢な背中は、着物の上からでもわかるぐらい熱かった。
やはりどうやら発熱しているらしい。

「さぁ、お部屋へお戻りください」

促しながら優しく背中を押し、台所の入り口まで連れて行く。
そしてそこに控えていた側使えの娘、瑠璃に目配せをする。
心得ている瑠璃は静かに頷き、今にもよろめいてしまいそうな女主人の手を取った。

「さぁ、参りましょう桃香様。」

小柄な娘はその体に似合わないほど力強い腕で桃香の細腰を支え、ゆっくりと歩き始めた。

「お熱が有るようですね桃香様。」
「まぁ、熱なんて無いわよ?大丈夫です。」
心配そうに見つめてくる瑠璃にチラリと微笑んでみせた桃香は、元気を装った声で否定した。
けれどそれは嘘だと、誰が見てもわかる事だった。
「いいえ…大丈夫じゃありません。だからあれほど申しましたのに…」

朝からあれやこれやと使用人に混じって働きづめだった桃香は、その上ろくに昼食も口にせず、昼過ぎになってネジの好物「にしん蕎麦」の準備をすると言い出した。
端から見ても疲労の色濃く出た青白い顔。
すぐさま瑠璃は強く反対した。
それじゃなくても朝からずっと使用人と同じ事をしていたのだ、それだって瑠璃にしてみれば止めて貰いたかったと言うのに。
最近の女主人の体調の変化は、ある特定の事に纏わる症状だと思い始めていた瑠璃は、もう本当に一日中安静にしていて貰いたいのが本音なのだ。

「お料理なら料理番の夫婦に任せておけば、ネジ様のお好きな物を言われなくとも準備しますのに。何度も申し上げたはずです。なのに…御無理が過ぎますわっ。こんなに線が細くていらっしゃるのに。その上今は尚のこと大事にされませんと…」

そこまで言っていきなり黙り込む瑠璃を訝しげに思った桃香だったが、今は余計な口を挟めば藪蛇だろうと、あえて何も問わなかった。

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あきゅろす。
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