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めぐりめぐって
旦夕は既に失く
「……何それ、どういうこと」




 下ろしかけていたリュックサックが、私の手元からずり落ちた。

 ごっ、と鈍い悲鳴を床があげる。床が傷ついたかも。ついていないといいな、父さんに叱られてしまうのは嫌だし。ああ、そうじゃない。母さんは今、何と言ったんだっけ。

 今は床なんて気にしている場合じゃない。



 鳴りやまない頭痛すら忘れるほどに、私は動揺していた。
 いつも焦点がぶれそうになる視界も定まっていて、頭は可笑しいほどに冴え渡っていた。


 半開きになった口を閉めようとも思わない。どんなに阿呆面だろうとも、ここまで驚いたのは初めてだったから直しようがない。





 そんな私を、目を丸くして見下ろしたのは母さんだ。

 私が驚いたのが珍しかったのだろうか。そんなに物珍しいものでもないだろうに。
 ……いや、そうでもないのか。考えてみたら、私が家族の前で表情を出すのは確かに珍しかった。



 いや、そんなこともどうでもいい。

 さっき母さんの口から飛び出た信じられない言葉が私の聞き間違えかそうではないのか、それが重要だ。




「ねえ母さん、トビが消えたってどういうこと?」

「そのまんま。私が帰ってきたときにはもういなかったのよ」




 母さんの言では、自分の部屋に行こうとしてトビの部屋を通りがかったら、何故か扉が開いていたとのことだ。
 試しに覗いてみれば部屋はもぬけの殻だったそうで。


 にわかには信じられないが、母さんの言葉を疑いはしない。
 母さんが冗談や利益の無い嘘を吐く人間ではないことは知っている。


 だが、あまりにも突然のことで脳が追いついていなかった。

 なんて返したものかわからなくなって、頭に浮かんだ疑問をそのまま口にしてしまった。




「じゃあ、トビはNARUTOの世界に帰れたのかな?」



 私の問いに母さんは腕を組んで眉を寄せた。



「うーん……一応パソコンとかニュースで、ここら辺で不審者が出ていないか調べたけどそういうのは無かったわ」

「でもアイツ忍者だよ? もう体調悪いわけでもないし、隠れて行動できるでしょ」

「私はNARUTOを見てないし、あの人がどれくらい強いのか知らないんだけど」

「作中トップクラス。アイツのすり抜け見たでしょ? 攻撃が当たらないんだよ」




 私の解説に、母さんの眉間にできる皺はより深くなっていった。

 半信半疑といった様子で私を見下ろすが、次の瞬間には疲れ切った風にため息を吐いて腕を下ろした。



「警察だって無能じゃないのに、そんな隠れて動けるもんなの?」

「んー……」



 私の迷うような声に、母さんは信じられないと言いたげに目を細めた。

 確かにトビの強さを知らない人からしたらそう考えるだろう。でもでもS級犯罪者の戦犯を舐めるのはマズイと思います。
 母さんは私の答えを聞く前に、大袈裟に肩を竦めてため息を溢した。



「というより、本当にあの人が居たのかも信じられないわ。夢だったんじゃないかって思えるもの」

「気持ちは分かるけど……でも夢じゃないし、まだ気を抜けないよね」



 油断と慢心は後から倍になって返ってくるものだよね。映画とかだと「ざまあみろ、俺に逆らうからだ!」とか「他愛もない」なんて言うやつは大抵死んでいる。俗に言う死亡フラグ。


 もちろん、ここは現実であってフィクションの世界ではない。それは理解している。

 だがトビはマンガの世界の住人だ。何を仕出かすか、何が起こるかなんて分からない。




 とはいえ、多分トビはもうこの世界にはいないだろう。


 奴がこの家を出ていくメリットが何もない。寧ろデメリットしか無いだろう。
 なのにいないってことは、帰る手段を見つけて帰ったということだ……と思いたい。

 不安が無いわけではないか、とりあえずは一息ついても良いだろう。

 ずっと姿勢が同じだったから、腰を軽く回すとボキボキと音が鳴る。それに自分でも少し驚いてしまう。軽く叩きつつ、私は母さんに何気なく言った。



「ま、別にいいか。私部屋にいるから、ご飯できたら呼んで」



 了解の返事を確認してから、鉛みたいに重いリュックを拾ってリビングを出た。
 暖気は逃げ去り、私の肌を冷気が刺した。鳥肌が立つのを感じて、早歩きで部屋へと向かった。


 部屋についた私は、今度こそ休むためにリュックを机に置いてベッドに倒れ込んだ。

 ベッドのバネで軽く跳ねた私の体もすぐに動かなくなる。
 寒いからストーブをつけたかったけど、もうそんな気力もなかった。



 やはりと言うべきか、学校にいるのは非常に疲れた。
 授業も集中できないし、理解もほとんどできない。友達と会話するのですら息が詰まってしまい、辛いばかりの1日だった。


 わかっている。身から出た錆だ。
 暫く行き続けていれば慣れてくるはずだし、こんなことにすら躓くのではお先真っ暗。当然の事なのだしやらなくては。

 こんなこと親や友達、先生には言えないなあ。
 知られたら、失望されるのは目に見えている。情けなさに笑いがこみ上げたが、すぐに虚しくなって真顔になってしまった。



「っふ……うう」



 唸り声みたいな呻きが口から漏れる。自然と体を丸めて、キツく目を瞑った。


 また、頭が痛くなる。学校に行きたくなくて、悪い点数を取りたくなくて、ため息をつかれたくなくて嫌になる。
 ズキズキと鋭利なナイフが刺さってるみたいな痛みが絶え間なく押し寄せるものだから、自分への苛立ちも増す。

 自分でも知らないうちに、大分我慢していたらしい。
 激しい頭痛を歯を食い縛ることで耐えながら、私は深く呼吸した。




 起きなくちゃ。


 本当に現実か、まだ信じられない。
 自分の目で見なくちゃ、信じられるわけがない。

 鵜呑みなんてしてはならないのだから。



 ふらつく足に活を入れ、ベッドの手すりを支えに立ち上がった。

 本棚とか机とか、手すりに出来そうなものは全部使って進む。
 扉を蹴破るようにして開き、トビの使っていた部屋へと向かった。

 壁に上半身の体重を全部預けながら歩くのは、楽だったけど時間がかかった。



 1分くらいかかって何とかたどり着いたトビの部屋は、いつもと何ら変わらないように見えた。

──本当はいるんじゃないか?

 そんな懐疑にも似た念が沸くと、溢れるように不安は湧き出す。
 居たら嫌だなあ。厄介者でしかなかったし、いないのなら小躍りして喜ぼう。まあそんな元気はないけどもそこは言葉の綾というか、比喩というかそんなものです。




 …………って。私は誰に対して弁解しているんだ。変な虚しさが湧いてきたじゃないか。


 ノブを捻って、戦々恐々しながらもゆっくり開けた。

 ノックなしなんてアイツなら怒りそうだな。いや、私でも怒るかな。常識人なら誰だって嫌だろう、プライバシーの侵害だし。トビは非常識人だけども。

 出来た隙間から顔だけで覗いた。





 やっぱり、ここには誰もいなかった。



「……は、はは」



 乾いた、どうしようもなく無意味な笑いが零れる。




 ああ、本当にいないんだ。



 予想していた嬉しさはなく、だからといって悲しさもない。
 ただただ「そうか」と受け入れるだけだった。


 呆気ない幕切れだったな、と。一人静かに物思いに耽る。

 一週間か二週間程度で消えるなんて、二次創作でも早々ない話だろう。
 いや、まずマンガの世界の住人がトリップするというのが可笑しい話なんだけど。




 でもまあ、これで良かったと思う。


 私は漸く普通に戻れそうだし、トビも月の眼計画を実行できる。

 私もトビも満足いく結果となった。
 トビは少年漫画のキャラクターだし、何より敵役だからまず間違いなく計画成功とはならないだろうが、そこは私の知ったことではない。



 今までの関係は、お互いの利益のみを求めたものだったと思う。
 多干渉はせず、必要なときだけに関わる。トビだってこれが理想的なものだっただろう。

 まあ殺されかけたのはホント絶許ですけどね。そのうちバチが当たることを祈っておく。


 でも怯えるのもこれで終わり。今日からは枕を高くして眠れる。




 多少はマシになった頭痛を感じながら部屋へと戻る。


 宿題をしなくちゃいけないけど、もう少し調子が楽になってからでも良いだろう。

 行きとは違って、真っ直ぐ立ちながら歩けるのは嬉しい。
 冷たいフローリングの感触をタイツ越しに感じながら、私は鼻唄を歌いながら歩く。久々に我が家で落ち着けるなんて何たる幸せか。





 ただ、一つだけ思うことがあるとすれば。


 引きこもりを直してくれたお礼を言えなかったのは、残念だったことだろうか。




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あきゅろす。
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