僕は何度でも、貴方と幸福な恋をする
僕は何度でも、貴方と幸福な恋をする1


 爽やかな風が髪の間を吹き抜け、優しく肌を撫ぜる。
 自然の空気を肺一杯に吸い込めば緑の香りが全身に沁み込んだ。

「すいません。この町に宿はありますか?」

 ハンドルをキュキュッと切り、道の小脇にランドナー(ツーリング用自転車)を停める。
 降り立つ青年の名前は若井燕(わかいつばめ)。20歳という年の割に幼い尊顔は高校生に思われる事も屡だ。

「おや、旅人さんかい? こんな時期に珍しいね」

 パンや焼き菓子を売る露店の店主が、探るように尋ねる。
 夏休みを利用した旅行者は多い。
 しかし今は涼やかな風がススキとダンスを踊る秋だ。茜色の空に恋をした赤トンボも、スイスイと飛んでいる。

「ええ、まぁ。……あっこのサンドイッチ、美味しそう」

 瞳に飛び込んできた商品を指さす。瑞々しい野菜とベーコンが挟まったバケットサンドイッチ。
 空腹を感じそれを購入すれば、店主の警戒は解けていた。現金なものである。

「困っているなら、丘の上の館へ行ってみるといい。きっと“王子サマ”が助けてくれる」

 大の男から発せられたメルヘンチックな言葉。しかしその表情は真剣で、冗談で誤魔化しているようには見えない。

「は?」

 けれど置いて行かれた燕の思考は一時停止する。




「今時、王子サマ。……あだ名にしても恥ずかしい」

 暫しの休憩と木陰に腰を下ろす。
 そしてボリューム満点のバケットサンドイッチに齧り付き、遅いランチを堪能した。
 燕の趣味は一人旅。今日訪れた町は通過点に過ぎず、彼の目的地はずっと先に有る南の土地だ。
 予定では朝方通り過ぎている町。そこで一晩の宿を求める理由は旅の遅れ、ついつい寄り道を楽しみ過ぎてしまったのだ。

「ま、どうせ一晩だけだ。変な人でなければ問題ないか」

 スクリと立ち上がり、燕は前向きに歩き出す。
 旅の出会いは楽しみの一つ。それが“変わった人間”なら、後々の思い出も華やぐだろう。
 相棒であるランドナーに乗り込み、教えられた場所へ向かった。

 丘へと続く坂道は長く、軽快に滑るホイールがその実力を発揮する。
 もしも普通の自転車だったら、途中で息が上がっていただろう。それ程まで目的地は遠く、建物の全容も見えない。
 露店の店主は太鼓判を押していたけれど、行き着くまでが一苦労だ。

(一体どんな人が、住んでいるんだろう?)

 純粋な好奇心に胸が高鳴る。遠目にも立派な洋館は権力者の象徴にも思えた。
 人生の成功を収めた先駆者か、それとも由緒正しい血統を守る子孫か。どちらにしても、雲の上の存在である事には変わりない。
 未だ見ぬ館の主人が、燕の脳裏に輝いてイメージされる。

「……ハァハァ」

 そんな事を考えてペダルを漕いでいると、前方に人影が見えた。坂道が相当辛いのか、息が切れている。
 燕にとっては上り坂、その人物にとっては下り坂だ。秋風に揺れるブロンドの髪も稲穂のように首を垂れる。

「ッ……!」

 いや、違う。それは前兆に過ぎない。

「危ない!」

 反射的に燕が叫ぶ。
 スレンダーと呼ぶには病的に細い脚。それが絡まるように前へと倒れる。踏み止まる力も無いまま、その人物は道路に転がった。

「大丈夫ですか?」

 ブレーキを緊急停止させ、急いで駆け付ける。
 遠くからでは分からなかったが、その人物は燕と変わらない年頃の青年だった。
 しかしその身長は高く、顔立ちも異国の血を感じさせる。外国人――いいや、ハーフだろうか。

「……ッ。なんと、情けない脚だ」

 サファイアの瞳が悔しさに潤む。
 己を叱咤する声音は流麗で気品に満ちている。まるで、違う世界に迷い込んで来た王子様だ。

「もしかして、あの洋館の人?」

 思い当たる人物像。朧げだった店主の言葉が強烈な色を持つ。
 起き上がろうとする身体を支え、燕はその尊顔を覗き込んだ。月光が流す涙のように儚い美貌がルビーの瞳に飛び込んでくる。

「そうだが。君は……?」
「僕は燕――若井燕といいます」

 涼しい秋風が金木犀の香りを運ぶ。それが二人の出会いだった。




 ◆◆◆




「城金皇慈(しろがねおうじ)。変わった……というか、凄い名前」
「そうか? 初めて言われたよ」

 舗装された道を外れ、木陰で休む。
 燕の疲労は薄いが、正に王子様――皇慈の方は金木犀の幹に背中を預けている。
 幼い頃より病弱だという皇慈の顔色は青白く、力も弱々しい。

「お茶。どうぞ」
「ありがとう。とても落ち着く味だ」

 丹花の唇が、燕の差し出したコップに触れる。
 会ったばかりの相手。けれど燕の庇護欲は湧き上がった。頼るよりも、頼られたい。
 率直にいえば、皇慈に一目惚れしたのだ。

「君は自転車で旅をしているんだね。若いのに凄いな。高校生?」
「いえ、大学生です。これでも20」

 悪気の無い質問が、燕の胸に突き刺さる。
 やはり皇慈にも幼く見えてしまった、己の童顔が恨めしい。

「それは失礼。私は21歳。一つしか違わなかったな」

 宜しくと、皇慈の右手が差し出される。

「いや。僕の顔が子供っぽいから……よく間違えられるし」

 優雅で落ち着いた皇慈の物腰。それは本当に本物の王子様のようで、燕の右手は緊張に震えた。

「けれど君は溌剌と元気そうだ。健康で丈夫な身体は神からの授かりものだよ」

 慈愛深い微笑みがフワリと花咲く。皇慈は容姿だけでなく、心の中まで美しい。

「ありがとう。で、いいんでしょうか?」
「ああ、勿論。君を引き合いに、自分の弱い肉体を卑下した訳ではないよ」

 正直な燕の心臓がドキンと音を立てる。
 急速に、そして確実に、皇慈への恋心が育ってゆく。

(自分では惚れっぽくないと思っていたのに、可笑しいな)

 しかも同性への恋情など正真正銘初体験だ。
 戸惑いと気恥ずかしさが、燕の背筋をソワソワと駆け巡る。

「それにしても、燕か……。まるで運命だな」

 金木犀が咲き溢れる天井。その遥か彼方を見詰め、皇慈がポソリと呟く。
 夕方の空は茜色に染まり、西日のベールが金色に輝いている。

「え?」
「丁度今朝、鳥のツバメを見たんだ。そして夕方、人間の燕――君と出会った」

 皇慈が視線を戻し、サファイアの瞳に“人間の燕”を映す。

「ああ、成程。凄い偶然ですね」

 運命という言葉の魔力は強力で、燕の鼓動は制御不能だ。

「あっ。そういえば、何処かへ出掛ける途中だったんですか?」

 このままでは皇慈にも、頬の熱が気付かれてしまう。燕は思い切って話題を変えた。

「そうだ。私の代わりに、このオレンジを届けてくれないか?」

 膝の横に置かれていたバスケット。皇慈が蓋を開け、その中身を見せる。
 反射的に覗き込めば、大ぶりのオレンジが隙間なく詰まっていた。

「私の脚はこの通り役立たずで、長い坂道を下りる事が困難なのだ」

 皇慈が自分の太腿から膝小僧をゆっくりと撫でる。
 それは痛みを癒しているようにも、己の無力を嘆いているようにも、感じられた。

「僕で役に立てるなら」

 好いた相手の切ない願い。燕は一も二もなく引き受ける。
 それが自分の運命を大きく変えてしまう、最初の選択肢だとも気付かずに――。




 ◆◆◆




「此処か」

 一生懸命登った坂道をUターンし、町に舞い戻った燕。
 お使いの目的地はブティックだった。と、いっても洋服を購入する事が使命ではない。

「すみません。皇慈さんのお使いで来ました」

 店に入り、要件を伝える。
 小さく狭い店内。従業人は中年の女性が独りだけだ。おそらく彼女がこの店の女店主なのだろう。

「まぁまぁ。神成先生も丁度いらした所なのよ」

 疲れ果てた様子の女店主は目の下に立派な“クマ”を携えている。
 その彼女に案内されて、燕は店の奥――住居スペースへと移動した。

「おや? 見かけない子だね」

 通されたのは子供部屋。中には渋い老紳士が椅子に座り、10歳くらいの男の子が寝ていた。
 見慣れぬ訪問者に気付いた老紳士が、燕の方を向く。

「ハァハァ」

 その間も男の子は荒い呼吸を繰り返している。病気なのだ。

「えっと、神成先生……ですか?」
「ああ、そうだよ」

 両耳から聴診器を外し、老紳士はカルテにペンを走らせる。
 神成先生――本名神成主(かみじょうあるじ)、その正体は医者だ。

「僕の名前は燕。皇慈さんのお使いで来ました」

 新鮮なオレンジをバスケットから取り出す。それは男の子への見舞いの品だ。

「燕君。そうか偶然……いや、あの子は『運命』と言っただろう?」

 診察を終わらせた主が席を立つ。そしてそのまま、燕の方へ向かって来る。

「はい。よく分かりましたね」
「私はあの子――皇慈の主治医だ。簡単な事なら分かるさ」

 主の身長は燕よりも10p以上高く、自然と見上げる形となった。
 年輪を重ねた目尻の皺。落ち着いたチャコールグレイの髪色が、大人の魅力に結び付く。ナイスミドルだ。

「皇慈さんはこの子の知り合いで?」

 燕はオレンジをサイドテーブルへ並べると、置いて有った団扇で男の子に新鮮な風を送った。

「いいや。名前も知らない筈だ」



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あきゅろす。
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