僕は何度でも、貴方と幸福な恋をする
僕は何度でも、貴方と幸福な恋をする14
懐を探って手帳を取り出し、簡単なメッセージを書き綴る。言葉の配置は多少バラバラになってしまったが、意図は通じるだろう。
そして手帳を置いて。教会を後にした。
(皇慈さん、皇慈さん、皇慈さん)
ハァハァハァ。息を吐き出す度に白く染まる。
真っ新な積雪は燕の下腹部付近まで積もっていて、思うように進まない。一歩を踏み出す事に、ズボッズボッと深く沈む。
身体のバランスを崩し、何度も転びそうになる。けれど燕は直向きに突き進んだ。
灰色の雪雲は天空から去り、煌めく星屑が広がっている。深夜の快晴。流星群でも訪れているのか、無数の流れ星が静寂の夜空を統べる。
自然が織りなす優美な光景も気に留めず、心の中は皇慈一色。ただ一つの想いが燕の足を止めない。
きっと皇慈も燕を探している。ずっと一緒にいて欲しいと、今も願っている筈だ。
(速く逢いたい)
皇慈を見付けたら優しく抱き締めて、何度もキスをしよう。そして彼よりも早く愛を囁くのだ。
身を刺す氷点下の寒さも、重力の塊を背負ったような疲労も、二の次だ。
(僕は唯、愛しい人と一緒にいたいだけなんだ……)
結局は燕も皇慈と同じ――愛する者の姿が見れぬと、淋しい。
淋しくて、淋しくて。不安で、不安で。狂ってしまいそうになる。
けれどどんなに前へ進んでも、丘の上の洋館へ辿り着けない。普段はランドナーや車で移動しているので、徒歩での距離感が掴めないのだ。
(今度は僕が見つける。もう、絶対に離れない。だから、だから――)
苦しくて、苦しくて。心臓が張り裂けそうだ。
愛しい皇慈のいない世界は、燕に辛すぎる。簡単な呼吸の繰り返しも困難だ。
(春になったらピクニックに行こう。夏には花火を楽しんで、秋にはまた紅葉を観よう……そして冬は、子供達に交ざって雪ダルマを作ろう)
叶えていない約束がある。紡ぎたい未来の光景がある。それもすべて夢幻のままで、皇慈は消えた。
世界の何処を探しても居ない。
「……あれ……は、」
ふと気付くと、前方に高く聳える大樹が見えてくる。丘の中腹に立つ金木犀の木だ。
其処は燕と皇慈の恋が始まった場所。大切な思い出が詰まっている。
惹き込まれるように近付き、ハッと息を呑む。
金木犀の根本に“見慣れない石碑”が立っていたのだ。夜闇の中ではよく見えないが、文字も刻まれている。
「皇慈さん……の、ブランケット」
十字架の石碑へ震える両手を伸ばす。
タータンチェックのブランケットが、まるで冬の寒さから守るように巻かれていた。それは間違いなく皇慈の物だ。
燕はそれを、反射的に抱き締める。何故と、疑問に思う間もなかった。
しかし皇慈の温もりは北風に攫われて、微塵も残っていない。
気力が一気に抜ける。燕は崩れるように、その場に倒れ込んだ。
大量の雪に埋もれたまま、ピクリとも動かない。もう、体力の限界だったのだ。
(嗚呼、なんだ。此処に居たんですね……皇慈さん)
けれど燕は安堵の羽根に包まれていた。
全身に凍み込む雪の冷たさも、何も感じない。
ただ眠りに落ちる寸前の、ホワホワと揺蕩う心地良さが広がる。それは探し求めていた皇慈の欠片だ。
二人の指輪が投げ出した左手に光る。燕は最後の力を振り絞り、それを眼前まで引き寄せた。
純プラチナのシンプルなデザイン。正式なマリッジリングにしては控えめな値段で、宝石なども付いていない。
皇慈の上品な指を飾るには分不相応にも感じる品。しかし彼が嵌めると、忽ち最高級品のように輝く正直な指輪だ。
最も燕の指では身分相応の輝きしか発揮していないが。
それでも優しい月光は、二人の絆を明るく照らす。まるで天空への橋を架けるように。
(……ねむ……い)
寝転んでいる内に瞼もウトウト重くなる。
記憶が朧げになる程長く眠っていた筈だが、燕の睡魔は貪欲なようだ。
それに洋館へ進もうにも、教会へ戻ろうにも、体力が残っていない。
雪原のベッドは綿毛のように柔らかく。燕を眠りの楽園へと手招きする。
それは睡魔の強力な誘い(いざない)だ。とても燕では抗えない。
「おやすみなさい」
胸に抱く皇慈のブランケットへ頬を擦り寄せて、重なる二人のマリッジリングにそっと口付ける。
燕の心は穏やかに晴れ渡り。重力の塊を背負ったような疲労も何処かへと消え失せた。
「皇慈さん……、」
やっと貴方に逢える。
確かな確信を胸に抱き、燕は瞼を閉じた。
意識が遠退くのと同時に、眠りの楽園が入口を開ける。眩しく感じたのは一瞬で。燕の魂は直ぐに安らぎを感じた。
◇◇◇
一面の花畑が緑の大地に広がる。
燕の背中には鳥のような羽根が生え、サファイアの空をスイスイスイと泳ぐ。
誰もが夢魅る桃源郷。深い慈愛に溢れた世界の風が気持ちいい。
季節は厳しい冬から、命芽吹く春へ移動していた。
それは約束した景色。終わった筈の時間が再び動き出す。
「私は人間の中で、燕が一番好きだ」
サラサラ。
輝くブロンドの髪が、爽やかな微風に揺れる。
「元気に駆けるその足が、伸びやかに育ったその心が――そして温かく優しい愛情が、とても好きだ」
細く優美な手指が遥かなる天空へ伸び、花咲くように開く。
地平線まで晴れ渡る青天。ホワホワの綿菓子雲が浮かぶサファイアの空へ。同じ色の瞳を輝かせながら。
愛しい魂が、愛しい魂を呼ぶ。
「皇慈さぁぁん!」
燕も限界まで両腕を広げて、花畑の中心へ飛び込む。
求めていた愛しいひと――皇慈が燕の魂を出迎えている。それは幸福の羽根が舞う切ない再会だ。
たった一つの命。長い人生と引き換えにした邂逅。けれど燕の中に後悔の念は微塵もない。
それを間違った選択だと云う者もいるだろう。恋に狂った愚か者だと、罵る者もいるだろう。
しかし燕はもう狭い正論の中で生きられない。
仮に別の道を選んだとしても、魂を失った抜け殻として、機械人形のように空虚な生涯を終えるだけだ。
「また先を越された。予定では僕が、『再会の喜び』を伝える筈だったんですよ」
「それは、すまない。つい癖が出てしまった」
「どんな癖ですか、それ?」
すべてがクリアに映る。味気ない灰色の景色は鮮やかな春色へと変わり、ボンヤリと鈍っていた思考の霧も一気に晴れる。
若井燕と呼ばれていた個体が封印した記憶。それは悲しみの致死量を超えた、愛しい伴侶との別離だ。
思い出す。思い出す。
「本当に皇慈さんは、ずるい人ですね」
可愛くて堪らない。愛しくて愛しくて、涙が溢れてくる。
燕は緑の大地へ降り立ち。そのまま皇慈の背中に腕を回す。
やっと見つけた。
もう離さない。
ずっとずっと一緒だ。
「仕方ないだろう。何せ私は“燕にベタ惚れ状態”なのだから、な」
ふわり。皇慈も燕の背中を抱き締めて、何時ぞやの軽口を返す。
勿忘草。白詰草。蓮華草。タンポポ。スミレ。カモミール。スズラン。
色取り取りの野花が大地を覆うように咲いている。緩やかな風の流れに合わせてダンスを踊る花弁が楽しそうだ。
「それなら僕だって、皇慈さんが思っている以上に一途な男ですよ」
世界には愛し合う二人――いいや、二つの魂だけが存在している。
皇慈を探し求めて、終に燕は眠りの楽園まで訪れた。
人の世の理を破ってまで。魂を、肉体の牢獄から解放した。それは神の意に叛く大罪だ。
やがて魂が浄化されても、人間の輪廻には戻れないだろう。
しかしそれでも構わない。またこうして、愛しい時間を紡げたのだから。例え一瞬でも、願いが叶ったのだから。
「貴方は今でも、僕を生涯の伴侶だと思ってくれますか?」
「私は君を、絶望の淵に落とした相手だ。その言葉は勿体ないよ」
皇慈の両腕が背中からスルリと離れる。そして彼は一歩下がり、燕の両手を包み込むように握った。
「けれど許されるのならば、永遠の番(つがい)になりたい。来世も、その先の未来もずっとずっと――世界が続くまで」
皇慈は照れも偽りも無く言い切る。それは予想を遥かに超えた求婚だ。
真っ直ぐ見詰められる眼差しは今までで一番強い。
「ああもう、本当に敵わないな。この人には……」
恋は心臓で奏でるものだろうか。それとも脳の錯覚が惹き起こすものだろうか。
どちらも失った魂だけの存在には分からない。
分からないけれど、燕と皇慈の愛情は増すばかりだ。
「僕が指輪を贈る相手は、貴方だけですよ。それは永遠に変わらない」
ふわり。燕と皇慈の身体が花畑から浮き上がる。
自由に空を舞う花弁と共に。高く。
神の祝福に溢れた光の中へ――魂が惹き込まれてゆく。
魂の浄化が始まったのだ。
最後まで離れたくはないけれど、燕は左手を抜けさせる。すると皇慈の掌が手首まで滑り、燕と離れないように掴まった。
「いじらしくて、なんか可愛い。貴方のそういう淋しがり屋なところも、凄く好きですよ」
「茶化すな。燕の一途な可愛らしさには到底及ばない自信がある」
「えー? 皇慈さんも“相当”だと思いますよ」
燕はマリッジリングの片割れ。皇慈へ贈った指輪を素早く外す。
やはり正当な持ち主は皇慈でなければならない。彼の指を飾ってこそ、指輪も輝きを増す。
「貴方は僕の、愛しい王子サマ。何度生まれ変わっても逢いに行く――だからその度に、新しい恋をしよう」
「ああ。私も必ず、君を見付ける。そして何度でも、二人の愛を誓おう」
それじゃあ約束と、燕は皇慈の左手を促す。彼は直ぐに意図を汲み取り、薬指を持ち上げた。
出来た隙間に指輪を滑り込ませて、二人の絆を嵌め直す。
そのまま指を絡ませて、ギュッと隙間なく握り合う。隣同士で光る指輪の輝きが正しい姿に喜んでいるようだ。
「今度は勝手に、返却しないでくださいね」
「ごめん。燕が悲しむ事はもうしない」
「絶対ですよ!」
額同士をコツンとくっ付けて、念押しする。
皇慈のマリッジリングを燕の薬指に嵌めた犯人。それは死期を悟った皇慈自身だ。
「ふふ。若しかしたらこのやり取りも、何十回目かも知れないな」
「そうだと、いいですね」
何だか急に気恥ずかしくなる。二人は照れたように微笑み合って、そっと唇を重ねた。
(同性である相手を抵抗なく愛せたのは、そういう事だったんでしょうか?)
(そうだと嬉しいな。とても運命的で、ロマンチックだ)
純粋な魂同士の口付けが、お互いの心を伝える。
蕩けたまま唇を離して、二人はクスクスと笑い合った。
「そうだ。今度はもっと色々な場所へ行きましょう。僕の趣味、二人旅にするので」
「それは良いな。私も健康体を心掛けよう」
雛鳥が睦み合うように“未来の計画”を楽しく語り合う。
やがて気泡に似た光の粒が、空間を眩しく包み込むまで。
それは二人の身体から抜け出す記憶の欠片。一つ一つに、大切な思い出が詰まっている。
パァン……パァン。
爆ぜる度に記憶は浄化されて、保っていた『個体』としての意識も消えてゆく。
せめて来世では、大切な人達を悲しませない生涯を送ろう。母親に甘える幼い子供の笑顔が遠くへ消えた時、そんな事を思った。
『愛してる。絶対にまた逢おう』
優しく響く声音は、どちらのものだろうか。
柔らかい羽毛に抱かれる赤子ように、二つの魂は新しい世界へ旅立つ。
再び巡り逢う為に。
愛し合う為に。
愛しい時間を紡いで、宝箱から溢れる程沢山の思い出を創る為に。
最後のキスを交わす。
最初のキスを懐かしく交わす為に――
『僕は何度でも、貴方と幸福な恋をする』
それは小さな魂が夢見た、最後の祈り。
勿忘草が囁く――私を忘れないで、と。
白詰草が応える――約束する、と。
蓮華草の心が和らぎ。
タンポポは別離を悲しむ。
スミレは秘密の愛を想い。
カモミールは逆境に耐える活力を届ける。
そしてスズランは――幸福の再来を願った。
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