初恋は桜の中で:番外編
夢の世界のウサギちゃん2
◆◆◆
「……?」
不意に、一夜は遠い空の一角を見上げた。
藤色の粒子がキラキラと輝き、その付近の空間がぼやけている。
(何でしょう。空が歪んで見えます)
まるで、何かの干渉が世界の秩序を乱したようだ。
一夜が不思議に思っていると、微風が優しく頬を撫でる。
「一夜」
空間の歪が元に戻ると同時に、愛しい音色が耳に届く。
ドキドキと心臓が高鳴り、一夜は振り返った。
「椿!」
大きく育った朝顔の中。待ち望んだ想い人は青紫色の花に隠れていた。
顔だけをちょこんと出して、一夜を手招きしている。
まるでメルヘン世界を自由に行き来する小さな妖精のようだ。
一夜は微かに感じた違和感も忘れて、椿の元へ駆け寄る。
「ふふ。やっと逢えたな」
「はい。ずっと、ここに居たんですか?」
夢の世界が成せる不思議か、一夜も朝顔の中へスルリと入り込む。甘い花蜜が包む空間はベッドの感触と似ていた。
柔らかい花弁に背中を預け、椿の隣へちょこんと座る。すると直ぐに頭を撫でられた。
幸せだと、一夜は頬の熱を感じながら思う。
「ああ。一夜が、『自分以外に椿の姿を見せたくない』と思っていたからな」
最後のピースを椿が嵌める。
「え?」
しかし一夜はその意味を理解していなかった。
「僕は一夜が望めばどんな格好でも着こなして見せる。例え夢の世界でも、だ」
おかしい。
椿の声がぼやけて届く。
周りの景色もだんだんと薄れて、意識が目覚めるように浮上する。
もうすぐ夜明け。
夢の終わりだ。
「椿……?」
一夜は世界にとける指先を愛しい椿へ伸ばす。
けれど椿の姿は透けて、一ミリも触れられない。
そして今更ながらに気付く。
一夜は今、夢を観ている。
とても不思議な夢を。
「俺……椿が嫌がる顔は、夢の中でも見たく有りません」
夢の椿がふわりと微笑む。本物と同じように。
嗚呼、愛しさは変わらない。
「でも、椿が居ないと、淋しいと思ってしまいます」
二つの想いが綯交ぜになる。
お茶会は楽しかったけれど、椿の居ない光景は一夜にとって味気ないものだった。
例えそれが一時の夢でも。
「そうか。困ったな」
最後に残った椿の輪郭も、白む朝陽と同化してゆく。
「きっと本物の僕なら、上手く立ち回ったのだろうけれど」
「いえ。俺が自分勝手な事を言っているだけで」
一夜は慌てて言葉を追加する。
椿を困らせる気など微塵もなかった。
「椿は、夢の中でも俺に幸せをくれました」
もう触れられないと理解しつつも、一夜は椿の両手を握りしめた。
体温も感触も、何も感じない。
「でも、椿自身はずっと此処に居て、楽しかったですか? 独りで淋しく有りませんでしたか?」
一気に捲し立てる一夜。
椿の心根を聞くまで、この夢は終われない。
「君は不思議な質問をするな。僕は唯の、夢の存在だぞ?」
夢の椿がキョトンとして、一夜へ質問を返す。
「椿は椿――俺の大切なヒトです。夢の中でも変わりません」
一夜は力強く言い切った。
例え目が覚めて、夢の内容を欠片も覚えていなかったとしても。
今目の前に居る椿と真剣に向き合う。
「一夜、君は本当に……罪な男だな」
予想外の反応が返ってきた。
「えッ……俺何か、悪い事をしましたか?」
焦る一夜。
心当たりは、有る。
メルヘンチックな二人の衣装だ。
水色のワンピースとフリルの付いたエプロン。
金時計をぶら提げた一夜といい、椿もスタンダードなアリス衣装を身に纏っていた。
正直な感想は『良く似合っている』だけれど、本物の椿は嫌がりそうな格好だ。
「いや、違う。逆だ」
夢の椿がフルフルと首を横に振る。
「夢の中でも関係なく、僕の心を奪ってしまう」
透ける頬が朱を乗せる。
椿は半透明を保ったまま、一夜の手を握り返した。
やはり透ける。
けれど、淋しさは感じない。
「それは、あの」
一夜の心臓がドキンと高鳴る。
椿の方こそ、一夜の心を簡単に奪う達人――恋泥棒だ。
「嬉しい言葉……でした」
照れる一夜。
不意討ちの惚気が嬉しい。
「ふふ。僕の答えは最初に告げた通りだ」
可憐な花が綻ぶ。
椿は一夜へ微笑み返すと、朝陽に溶けた。
夢が終わる。
◇◇◇
チュンチュン。
早起きの小鳥が世界に朝を知らせる。
「……ん、つばき……」
一夜はポケポケ目を覚ました。
寝返りを打ち、瞼をゆるりと開ける。
すると知らず知らず内にタオルケットを抱き締めていた事に気付く。
椿は、当たり前だがいない。
普段通りの寝室。寝慣れたベッドの中だ。
「不思議な夢を観ました」
右手を眼前まで引き寄せて、独り言を呟く。
窓から差し込む朝陽が細い輪郭を照らす。
「椿にも、教えて」
そこまで言って、一夜は違和感に気付く。
爽やかな朝の空気に別の匂いが交ざっている。
香ばしく。落ち着く匂い。
これは――
「……コーヒー?」
バッと、跳ね起きる一夜。脳内は疑問符で一杯だ。
昨日は誰も泊めていない。それに一夜は独り暮らしだ。
「だ、誰か……居るんですか?」
心拍数がバクバクと跳ね上がる。
一夜は警戒心を携え、ベッドから下りた。
キッチンへ真直ぐ向かう。
「やぁ、ウサギちゃん。グッモーニン」
フェロモンたっぷりの色男がコーヒーカップ片手に出迎える。
間違えようもなく、聖祈だ。
「何故……?」
一夜の疑問は益々深まる。
「ミルクと砂糖は何杯かな。因みに“ボクのラヴ”はおかわり自由だよ」
しかし聖祈はマイペースなものだ。
何時もの軽口でコーヒーの好みを聞いてくる。
「……お任せします」
間延びした返事を返す一夜。
(これは夢の続きでしょうか)
と、そんな事まで考え始めた。
夏の気温は汗ばむ程高く、コーヒーの匂いもリアルに感じているが。
「――で。椿姫アリスバージョンとは無事逢えた?」
本題とばかりに話題を切り出す聖祈。
コーヒーカップもニヤニヤ笑顔で差し出す。
「はい?」
一夜は両手でカップを受け取り、小首を傾げた。
「もう、それが気になってボクだけ残っちゃったよ。あ〜あ。光ちゃんともモーニングコーヒー飲みたかったな」
聖祈の口は朝から絶好調で、一夜が質問を挿む前に先へ進む。
「光ちゃん、あ〜んなに可愛い顔してね。コーヒーはブラック派なんだよ。流石年上、ギャップ萌え!」
テンション高くコーヒーカップを頭上に掲げる聖祈。
無限のハートが一夜の傍まで飛んでくる。
「聖祈先輩……あの、桜架先輩は?」
一夜は思わず、キッチンの入り口まで後退した。
「え? ハルちゃんは紅茶派だよ。見た目通りで、可愛いよね!」
聖祈の頬がデレデレと緩む。
コーヒーカップは頭上から下ろし、口許へ持ってゆく。そのまま一口啜った。
「媚薬なんて入ってないよ。普通のコーヒー」
色っぽい視線が一夜の手許を指し示す。
「あ、今飲みます。ごめんなさい」
慌ててカップに口を付ける一夜。ホットコーヒーは冷めて、温(ぬる)くなっていた。
折角淹れてくれた聖祈に申し訳ない、と反省する。
「アハハハ。素直だね、ウサギちゃん。まぁ、季節的にはアイスの方が欲しいよね」
聖祈はウインクを一つして、自分のコーヒーを飲み乾した。
「いえ、ホットも美味しいです。ご馳走様でした」
一夜もコーヒーを飲み終わり、聖祈へ礼を述べる。
キッチン中央へも戻り、コーヒーカップをテーブルの上へ置く。
「それで、聖祈先輩」
改めて聖祈と向き合う一夜。
「何だい? ああ、ボクのラヴをご所望かな」
パチン。
聖祈が二度目のウインクを色っぽく飛ばす。
「いえ。俺の家に居る理由を教えてください」
一夜は舞い飛ぶハートをススッと避けた。
聖祈が残念そうな顔をする。
「簡単に説明すると、ボクが夢魔だってコトだよ」
「それじゃあ、あの夢は聖祈先輩の仕業」
謎の糸がすべて繋がる。
一夜は導き出した答えに納得した。
「遊ぶ暇もなく言い当てたね、ウサギちゃん。ボクはもっと――」
詰まらなそうだった聖祈の口が厭らしく開く。
妄想劇場開始。
『え? 分かりません。もっと優しく教えてください』
一夜の瞳が潤み、聖祈を弱々しく見上げる。
『んー、どうしようかな? ウサギちゃんのお口が可愛くお強請りしたら、考えてあげてもいいけど』
妖しく笑む聖祈。
一夜の頬を撫でると、その指で前を寛げる。
『はい。俺、頑張ってご奉仕します。パクッ』
妖しい擬音まで再現して、聖祈はジュルリと涎を垂らした。
妄想劇場の幕を下ろす。
「――て云う。美味しい展開を期待していたよ。ホント残念残念」
心底残念そうに肩を竦める聖祈。
「ッ!」
一夜の全身から血の気が一気に引く。
椿が堪らなく恋しい。
「椿に、逢いたい」
願望が震える口からポロリと落ちる。
「ボクも逢いたいなぁ〜。勿論、アリスバージョンで」
「駄目です。夢の椿も俺の大切なヒトです。厭らしい目では見ないでください」
鋭い釘を刺す一夜。
完全に条件反射だった。
「アハッ。つまりちゃんと逢えたんだね。いやーお熱いなぁ」
「あッ」
一夜は慌てて自分の口を両手で塞ぐ。
全身の熱が集まる頬は沸騰しそうだった。
「聖祈先輩……わざと」
漆黒のウサギ耳も肩の横でプルプル震える。
穴があったら入りたい、と一夜は心底思った。
「え? 何が? アリスコスが?」
聖祈の頭上に大量の疑問符が浮かぶ。
狙った誘導ではないようだ。が、一夜の頬熱は一向に冷めない。
「キミってホント、椿姫が絡むと倍可愛くなるね」
聖祈はそう言って、ふわりと浮かび上がった。
天井が有る筈の場所が不自然にぼやける。
「恋の魔法は強力だなぁ〜。ボクもうお腹いっぱい」
銀色に輝く光の粒子が集まり、聖祈の全身を包む。
「じゃあ、今度こそお目覚めだよ。可愛いウサギちゃん」
ごちそうさま。
満足そうな言葉が脳内に木霊する。
聖祈の姿は幻想に溶けて、跡形も無く消えた。
「あ……聖……き」
力が抜ける。
睡魔の強力な誘いが瞼を下ろす。
一夜は崩れ落ちるように意識を手離した。
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