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忘れないでと誰かが言った
空に向かって口笛を吹く。ところが残念なことに水谷は口笛を上手に吹くことができなかったため尖らした先ではなく八重歯にあたった微かな隙間から漏れた息が拍子抜けな音を迷走させていった。大抵の学校の屋上といえば立ち入り禁止だが少しばかり背伸びしたい学生たちはその屋上へ導くドアの開け方を何故か知っていたりして水谷も実は上手とは言い難いがサボり方を知っている一人だったりする。花冷えの頃。寝転がる背にスルリ滑り込む春疾風が水谷を右側に落ちる影へと身体をよじらさせた。目元に落ちた暗黒に先程目の当たりにした光景がスライドショーのように映り込んで眉をひそませる。
自分の知らない誰かがあの娘を呼んだ。好奇の目で見送った友人がヒソヒソと声を上ずらせて密談にもなっていないソレは入り口で立つ長身の短髪と二三言会話をして廊下へ消えていく姿を呆然と見ている水谷の耳にハッキリと届いていた。知った顔の名前を呼ばれれば目がいくのは道理で花井も阿部も顔をあげたが別段なにも言わなかった。あの雰囲気に気がついていないわけではないのだろうが彼女に対する尊敬の意が二人を黙然させたのだろう。しかし水谷は今すぐ追いかけナンセンスでも声をかけその間に割って入りたかった。どうしたの?何してるの?いつも彼女の名を呼んでそうしてきた。何が悪い。いつものことだろうそうだろうなぁ?
「…お、れ…トイレ!トイレ行ってくるっ」
「お、おぉ。んなハリキって言わんでも」
「漏れんだろ。それかゲリ」
そうなのゲリなのっピーピーでもうアハッ、アハハッ。それはもうワザとらしく腹を抱えたまま冷たい視線を背に浴びて廊下を走り出した。階段を降りて登って走って走ってぶつかって走って。見つけたのは姿ではなく階段を残すところ後半分降りた先のその下の階段を降りた踊り場から聞こえる声だった。あまり使わない移動教室に続く階。誂えたような人気のなさ。ソロリと手すりの壁に背を預けしゃがみこめば掠れがすれて低い男の声がする。息は上がっていないのに鼓動ばかりがはやい。
オレらのマネージャーだしこんな処に知らん盛の男と二人っきりなんてまぁ危ないじゃん。何かあったとき?とかオレがねぇ助けに行ったらんと、ねぇ。
格好悪い自分の行為にそれなりの言い訳をつけて納得できるかといえば嘘だが楽にはなった。ギュウと服の上から心臓を握りつぶし耳をすます。
「……答はわかってたから…いいよ…」
「…ごめんなさい」
「いや、ハハッ追い討ち」
「あっ!えっと……」
「………。うん。あのね、実はオレもうすぐ引っ越すんだよね。まぁだから今日勇気が出たんだけど。……篠岡さんさ、オレのこと知らんかったでしょ?」
「……うん。会ったこと、ないよね?」
「そう、会ったことない。知らないの当然だよね。………野球部のマネージャーの篠岡さんを見て気になって七組通る前は目が合わないかなぁ?なんてチラチラ見てみたりして。ハハッ、やー見事に一回も合わんかった」
「わぁっ!う、…鈍感で」
「ブフッ、そうなの?ワザとかと思った」
「そんなことっ!!」
「……うん。はぁ、よかった今日言って。こんなたくさん喋れた。……ホンとはさ、告白とかしなくてもさよかったんだ。そりゃ付き合えたらって思ったけど、そんな奇跡………オレ」
そして息を飲んだ間を置いて震えた声が真剣さを語る。
「篠岡さんがオレを知らないまんま引っ越すのが何か…自分が辛くて……。傲慢な気持ちなんだけど、知ってほしくて…こんなヤツもいたんだって……覚えててほしかった」
「………」
「…それだけ。アリガト聞いてくれて。あー!スッキリした、じゃあ戻ろっか」
「覚えてる」
「………」
「ずっとは、ムリかもしんないけど…覚えてるから」
「………、抱きしめてい?」
「ええっっ!?」
ウッソー、と明るい声で締め括られ休み時間のチャイムが響いた。駆けて行く足音。遠退く笑い声。静かになった校内の屋上で水谷はまた身体を仰向けに大の字になる。唇を食み少し濡らした口をすぼめ数回目で空気が抜ける上に重なり語尾が上がる笛が鳴った。まっことなき本日は晴天。
「……悔しい限りだ」
心中を察することのない天候にしわくちゃのアカンベエをおみまいする。耳の奥でドックンと脈打つ音とそういう雰囲気と居たたまれなさに数分ともあの現場にいられなかった自分はさすがに臆病者だった。
「なんかさー…何かもぉアイツ……カッコ良かったよなぁ」
絞り出すようにクソォと吐き捨ててみる。彼女はきっと確かに忘れないはずだ。そうして時おり恥ずかしくなったり甘酸っぱく頬を染めたりするのだ。
「あー…もぉ……セツネー」
走り出したばかりのこの予感を何と呼べばよいのか。眩い陽光に両手で顔を覆う。耳に残る彼女の恥じらう声に悶えることさえ今はまだ出来ないでいる。


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あきゅろす。
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