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絶対的な敗者
An absolute loser


視線の正体は結局わからなかった。
ただ注意はしようとは思った。
これからの俺は一人ではない。
壱琉がいる。
俺の孤独は終わったのだ。

「壱琉、行こう」

まだ頬を赤くしたままの壱琉の手を引き、さっき通った廊下を逆走する。
チャイムはまだ鳴っていないせいか、廊下には誰一人いない。
ただ俺たちの息遣いと靴音だけが響いていた。
走って、走って、走って。
ひたすら俺は壱琉の手を握って、走り続けた。
何かから逃げるように。

「せ、せんぱっ……!」

息絶え絶えに壱琉が俺を呼ぶ。
走るのをやめて立ち止まろうかと思ったけれど、まだ気が急いているようで少し速く歩く。
身長差からくる歩幅の違いで壱琉の足が縺れないように気をつけていると、俺は少し小走りになっていた。
俺の握っているこの手は、振り払うこともせずに確かに着いてきてくれる。
それだけで酷く安心した。
まだ確証はないが、きっと何を知ったとしても俺のことを好きでいてくれる。
そんな気がした。

「壱琉は何科だったっけ?」
「普通科です……先輩は音楽科でピアノ専攻ですよね」
「あぁ」

無邪気な瞳が興味を持ったようにきらきらと輝いていた。
音楽が好きなのか、ピアノに興味があるのか。

「僕、先輩のピアノが凄く好きです!何て言ったらいいのかわからないんですけど……優しい気持ちになるんです」

それから壱琉は延々と俺について知っていることや、一部生徒の間で俺は『孤高の君』と呼ばれていることを教えてくれた。
中には間違った情報や憶測にすぎないことも多かったが、自分の知らない所でされている話など本人が知る由もない。
ましてや他人と極力関わらないようにしていた俺に誰がそんな情報を与えてくれるだろうか。
志乃や姫乃とは一切その手の話はしないし、会っても一言二言の短い会話くらいしかしない。

「先輩は学園一ピアノが上手だって聞きました」

その言葉に俺の急いていた気持ちは急に冷静になった。
聞いた限りでは、俺のピアノは学園一なのかもしれない。
それは自分でも何となくだが、自覚はあった。
けれど、俺には越せない人がいる。
いつだって俺のピアノは、その人よりも劣っていると感じる。
幼い頃に一度聴いただけの演奏を俺は今だに越せないでいる。
たぶん、これからもきっとあの人の奏でる音を越せる人はいない。
強く優しく気高いけれど、どこか儚い音色を紡ぐあの人を。

「俺は一番にはなれない」
「え?」
「一番はいつも同じ人だ……絶対に揺らがない」

俺は、二番でいい。
何よりあの人を尊敬しているし、ずっと憧れ目標にしてきたのだ。
一時期、音楽界から姿を消した時は目標を失ってしまったような気がして絶望した。
けれど、俺はあいつから逃げたこの鳥籠の中であの人を奇跡的にも見つけたのだ。
きっと姿を消した数年の間には、誰にも知られたくないことがあったのだろう。
あの人が、人前でピアノを弾くことはもうない。

「あの人はもう弾かないのかもしれない……」

ピアノを弾かない天才。
この学園であの人は皮肉にも、そう呼ばれていた。
俺も幼い頃あの人のピアノを聴いたが、あの一度きりだ。
それでも、当時五歳だったあの人の音色に今でも俺は圧倒的に負けているのだ。

「誰も越せない……」

誰にも届かない極みの世界にいるあの人の音色は、もう聴くことはできないのかもしれない。
あの人は、たった一人のためにしか鍵盤に指を乗せない。
俺はそんなあの人の想いの素直さが、とても羨ましかった。

「先輩は、その人のことを特別に想ってるんですね」
「あの人はある意味特別だな」

近くて手を伸ばせば届くはずなのに届かない所にいて、そこに存在することに違和感がある。
まるで空気のように掴めない。
ただ俺に優しい音色と生きる意味を与えてくれた。
ここにいてもいいのだと存在する意味を教えてくれた。

「先輩」
「ん?」
「僕は先輩の一番になれますか?」

壱琉の笑った顔がとても悲しげで、無理しているのが嫌でもわかってしまった。
俺が感傷に浸ることで壱琉を傷つけてしまう。
大切に守ると決めたのだ。
傷つけたのが俺自身だと言うのなら、それは責めるべきことだ。

「一番」
「え?」
「俺には何もないから、壱琉は一番だよ」

その言葉は本音だった。
あの人は特別だけど意味が違う。
例えるなら、あの人は神だ。
信じて、願って、近づきたいと思う、そこにあるのは絶対的な神格化だ。
けれどあの人は神ではなく、ただ一人を想う人の子だった。



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