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逃れられない過去
The past that is not evaded


本当に小さな呟きだったはずの謝罪は、きっと酒井に聞こえていただろう。
身代わりなどではなく、本心から酒井を愛することができればいい。
今はまだ無理かもしれない。
それでも、いつかはきっと一途に一人の人間を愛したい。
俺はあいつとは違うのだと思いたい。
不意に背中の温もりが遠ざかり、俺は名残惜しさに振り向いた。

「迺音先輩、好きです……僕と付き合ってください」

改まったように言う酒井に自然と笑みが零れた。
俺を好きになってくれた純粋な瞳がきらきら輝いていた。

「こちらこそ……よろしく」

照れ臭いのを通り越して、嬉しさしかなかった。
ずっと感じていた喪失感や虚無感が埋められていくような気がしたのだ。
あいつを失った喪失感。
これからは酒井が埋めてくれる。
あいつが傍にいない虚無感。
これからはそんなことを感じる暇さえないかもしれない。

「……壱琉、好きになるから」
「はい、いつまでも待ってます」

太陽のように笑う壱琉が眩しかった。
俺はあいつと一緒にいた頃、あいつが太陽に見えた。
それと同じように今は壱琉が太陽みたいに見えた。
くるくる変わる表情、相手を思いやる行動、そのすべてが愛おしい。

「俺、束縛するかもしれない」
「先輩になら、されたいです」
「浮気したら殺すかもしれない」
「殺されても構いません……むしろ、先輩に殺されるなら本望です」

何でもないような、当然のように答えてくれる壱琉が愛おしい。
俺の為に死んでくれるというなら、俺が求めていたものをくれるかもしれない。
ずっと変わらないもの。
永遠に変わらない気持ちでいてくれるかもしれない。

「先に出会ったのが壱琉だったらよかったのに……」

もしこれが運命だと言うのならば、神様は何て残酷なことをするのだろう。
俺がずっと大切にしてきたものは、俺を裏切っていなくなった。
一度に失ったものが多すぎて、補うことすら難しい。

「僕は今でよかったと思ってます」

俺の手をとった壱琉は手の甲を頬に擦り寄せ、反対側の手を俺の頬へと伸ばした。
温かい手の温度を直に感じ、俺は目を閉じた。
懐かしい記憶が瞼の裏を駆け巡った。
そのどれもが幸せだと感じていた時のもので、嫌なものは何一つなかった。
我ながら都合の良いものだと思った。
あの頃の俺には純粋にあいつが輝いて見えてた。
けれど、今の俺にはあいつが霞んで見える。
それ程までに何もかも変わってしまった。
そして、俺はあいつと過ごしたあの夢のような日々をもう二度と手にすることはないだろう。

「僕は僕と出会う以前の先輩のことを何ひとつ知りません……けど、いつも寂しそうにしてたのを知ってます」

目に見えて寂しそうな瞳をしていたのだと思うと急に恥ずかしくなった。
完全に無意識のうちに俺はあいつの姿を誰かに見ていたのだろう。
あいつと同じ色。
あいつと同じ物。
あいつと同じ仕草。
俺は、あいつと同じものを目で追っていた。

「僕は迺音先輩が好きです……心から笑っていて欲しいと思っています」
「壱琉」

頬に添えられた左手を取り、しっかりと握りしめる。
あいつを目の前にして、この小さな手をずっと俺は離さずにいられるだろうか。
愛おしいと思う気持ちは本物なのにあいつがそれを邪魔する。
いっそのことすべて忘れてしまうことができれば、楽なのに。
それすらもできない。

「壱琉」
「はい」

耳まで真っ赤に染めた壱琉をじっと見つめた。
そんな俺に壱琉ははにかむように笑いかけてくれた。
ぐちゃぐちゃになった感情が、ひとつに纏まったような気がした。

「キス……してもいいか?」

ますます顔を真っ赤にして茹蛸みたいになった壱琉は俯いてしまった。
逆上せてしまいそうなくらい赤くなっていたので、大丈夫なのか気になった。
ゆっくりと顔を上げた壱琉の瞳は潤んでいて、恥ずかしそうに伏せられた睫毛は少し濡れていた。

「……はい」

壱琉が返事をしたと同時に俺の唇は吸い寄せられるみたいに壱琉のそれに重なった。
触れるだけの短い優しいキス。
壱琉の唇はマシュマロみたいに柔らかくて、ほんのり甘い味がした。
久しぶりに感じた他人の唇の感触に俺は胸が締め付けられるように痛くなった。
ドキドキしたものとは違う、もっと重苦しく感じられるもので心臓は鼓動を速めた。
冷たく背を凍らせるような視線を感じて振り返れるも、そこには何もなかった。
その時の俺は、ただひたすらに恐ろしかったのだ。
誰かが自分を見ていると思っただけでも、心臓が握り潰されるような気がした。
再び視線を感じ、手に汗がじわりと滲んだ。



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