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短編集
灰色キャンバス
 海辺の白いアトリエの隅には今も僕の不動産のチラシが落ちているのかな。


 潮騒の音に惑わされるアトリエが僕は嫌いだった。君が高校を卒業してすぐに引っ越した伯父さんの家。
 北西の角の部屋を君はアトリエにした。僕は大学の長期休暇のたびに遊びに行った。
 もともと絵を描くことにしか興味のない君だから、数か月に一度の逢瀬になっても寂しがりもしない、行った時に新しい絵に夢中になっていたら僕のことなんて構いもしない。
 そんな態度が憎らしくて、好きだ。

 僕は大学で女の子にも告白されたりするのに、相変わらず君のことばかり考えていた。
 高校の美術室はテレピン油の匂いがきつくてみんな嫌いだったのに、僕だけはその匂いは君の香りと思っていたから辛くなかった。
 すれ違った瞬間、君から香るテレピンの、独特な匂い。


 ある冬に遊びに行ったら君はいなくて、探したらどんより曇っているうえに寒風の吹き荒ぶ浜辺で、キャンバスを相手にしていて驚いて。
 寒いよ、帰ろうよ。
 僕が言っても聞かなかった。キャンバスには荒れる冬の海が描かれていた。恐ろしいほどに、寒くて怖い冬の嵐の海だ。そこは死の入り口が近いというのに。
 君のそばで見守っているうちに、真剣な君の横顔の美しさに見とれてしまった。
 そんなにも海が好きなのかというくらいに、波を、空を、浜を、見つめては手を動かす。寒さのあまり顔色は真っ白なのに君は気にしないのだ。

 翌日、僕は慣れない海風で熱を出したが、君は看病してくれることなく海へと出かけて行った。  熱さと全身の痛みで苦しくて、僕は君を恨んだ。
 なんて男だ。友人が寝込んでいるのに行ってしまうなんて。
 もう、あんな男、捨ててやる。
 絶対、熱が引いたらすぐ帰って、二度とここには来るものか。
 熱の為か鼻水と涙が出てきた。

 翌日、薬のおかげか熱は引いてけろりとしていた。
 午後の日差しがさす頃目覚めると、すぐに君を探してアトリエに行く。
 ドアを開いてすぐに目に入る大きな出窓にキャンバスが立て掛けてあった。この間まではなかったはずのそれに目を奪われた。
 近付いて見ると君が必死に描いていた海の絵だ。だけど僕が知っている絵ではなかった。
 荒れる浜辺に男がいる。風に晒される哀れな男は、海の絵を描いていた。
 その横に座り込んで海を見つめている男がいる。灰色一色の寒々しい海に、赤い色がぽつんと。気が狂ったように目立つ赤いコートだ。僕の今年のお気に入りのコート。
 二人の男の後ろ姿は僕と君に見えた。
 背後でドアが開く音がする。
 振り向くと君がいて、僕を見て照れたように笑った。
「具合はどうだ?」
「まあまあだよ」
「春になったら、引っ越すぞ」
 なんて唐突な奴だ。呆れた。次に君が言った言葉にさらに絶句した。
「君が言ってたマンションに、一緒に引っ越そう。海はだいぶ描いたからもういい。確かアトリエに向いてる洋室があるって言ってたよな」
 僕は夏に、良さそうなマンションがあるからそろそろ戻ってきたら、と誘っていたのだった。シェアすれば安いから。
 その話を覚えているとは。しかも真剣に考えていたとは。
 君は窓辺の絵を満足気なまなざしで見た。
「これが俺の海の絵の集大成だ」「三年、海辺に住んで、これが集大成だって?」
 汚いシミみたいに変な赤い点が付いてるのに。
 でも君は絵を指差し、
「この、冬に気が狂ったような赤いコートがいい」
 そう言って嬉しそうに笑った。





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あきゅろす。
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