短編集 遠き、扉。 制服のポケットのほつれ、擦り切れそうな袖。着るのは今日で最後なのに、気になった。 正門前や、外の渡り廊下では、まだざわめきが止まない。それなのに、この生徒会室は静まり返っている。 午後の日が差し込む部屋でこの三年間を振り返ると、君との思い出しか浮かばない。 音を立てて扉が開いて、僕の心臓も音を立てて跳ね上がった。 あの日の約束を思い出す。 もう半年以上も前だ。 生徒会は後任に引継ぎも終わり、生徒会室に用事なんてなかったのだが、僕は後輩をからかいに遊びに来た。 鍵を借りに行ったら、生徒会顧問の先生には何の用だと聞かれて、忘れ物を取りに行きますと言った。 生徒会室の会長席に座って、昔のアルバムやら議事録やらを眺めて過ごしたけれど、一向に人がやって来ない。そして、ふと気付いた。一、二年は三年よりも一時間授業が多い日だったということ。 ああ、そうだ、今日は三年が早く終わるんじゃないか。誰も来ないはずだ。 時計を見ると、皆がやってくるであろう時間まであと40分程ある。待つか、帰るか、悩む……。 その時、突然やってきたのが智春だった。一年後輩の、人気の高い生徒会長だ。 「なんで?」 問い掛けたのは僕だが、智春も驚いた顔をしていた。 「いや、さぼりに来たんです……」 「何やってんだよ、生徒会長が。堂々と先生に鍵借りに行ったのか?」 「合鍵……」 「あ、そうだった」 生徒会長には代々、先生には内緒で合鍵が受け継がれている。 「先輩こそ、なんで?」 「お前らの顔見にな」 思わず本当のことを言ってしまった。智春は遠慮がちに、 「あの、一、二年はまだ授業終わってないんすけど」 「わかってる。言わんでいい」 「はぁ」 智春は僕と一つ席を空けて、書記の椅子に座った。くすりと笑いを漏らす。 「先輩がいるとは思わなかった」 「あ、ああ、うん。だよねぇ」 「だよねぇってなんすか、驚かしてくれた本人のくせに」 「うん。驚かそうと思ったのに、誰もいなくてちょっと拍子抜け。もう帰ろうかと思ってたし」 「さぼりに来て良かった」 「へ?」 「先輩が帰る前に会えて良かったっす」 「だよねぇ」 智春は僕に懐いてたから、そういうセリフが出てくるのも不思議じゃなかった。へらへら笑って僕が言うと、智春はまた、「だよねぇってなんすか」と言った。 ははは、と笑った後、二人の間に沈黙が降りる。智春の様子がおかしいが、生徒会長という重圧で疲れてるのかな、と思った。 「先輩、もう卒業ですね」 突然、しんみりとした声で智春が言った。 「まだ半年も先だろ。気が早いよ」 僕は笑い飛ばそうとしたのだが、智春は……沈んだ表情のままだ。 おかしい。どうしたんだ。 「ま、その……俺がいなくなってもお前ならやれる。ガンバレよ」 励ましのつもりでそう言った。ところがだ。 「先輩、卒業式の日、俺に会ってください」 「は?」 いやいや、お前、そこは「はい、頑張ります!」とか言うところだろう。僕のエールを聞いてたのかお前。 呆れて智春の顔を見る。彼は真剣そのもので、少し頬を紅潮させてすらいた。 「会ってください。卒業しても、俺と会ってくれる気があるなら、卒業式の後、生徒会室で待ってますから来てください」 なんか……真剣すぎるなと思った。智春はきっと、後輩という気持ちを越えて、僕と学校が関係なくなっても会いたいと思っているのだ。 僕はぽかんと智春の顔を見上げながら、間抜けな声でつぶやいた。 「智春……俺のことそんなに好きなのか」 こんな自意識過剰なセリフ、恥ずかしすぎる。やばい。 だけど言った瞬間に、智春の顔はさらに赤くなった。ぶわっと耳まで血が上って、僕は決して自意識過剰なんかじゃなかったことを知った。 「そうですよ!」 智春は怒鳴るように言う。声はかすれていた。 僕は唖然と、彼の顔を見つめた。可愛い後輩が真剣になっている。 「わかった」 頷いた。 「卒業式の後、ここでな」 「はいっ」 智春は嬉しそうな悲しそうな奇妙な表情をして頷き返した。 半年以上も前の、そんな約束。 だから僕は、生徒会室で智春を待っていた。 音を立てて開いた扉。 振り返ると、そこには君が……。 「あれっ?」 いない。 扉は開いたきり。 「なんだよ、自動ドアかっての」 近づいて行って、廊下を覗き込んだ。瞬間、目の前が真っ暗になり、体が何かに覆われる。 「わっ」 反射的に振り払おうとしたが、柔らかくて温かいそれに包まれたまま、あらがってはいけない、と心のどこかで思った。 落ち着いて見ると、僕を抱き締めているのは智春だ。呆れてしまう。 「なんだよ、遅れて来ておいて驚かすとはどういうつもりだ」 「すいませんっ、謝恩会の仕事で忙しくてっ」 智春は息を切らしていた。そうだ、生徒会は忙しいんだった。 僕は知ってるくせに責めてしまった。 「先輩がいるとは思わなかった」 智春の言葉が、あの約束の日と同じものだから、思わず笑いがこみあげる。 「あ、ああ、うん。だよねぇ」 「だよねぇってなんすか」 「うん。遅いから帰ろうと思った」 そして智春は言うのだ。同じ言葉を。 「先輩が帰る前に会えて良かったっす」 「だよねぇ」 だよねぇってなんすか、と僕は心のなかで呟いた。だけどそのセリフは耳からは聞こえてこない。 おかしい。見上げると、智春は笑っていた。渾身の笑顔。 「あの日と同じですね」 幸せそうな、笑顔。 「なに笑ってんだよ。人を脅かしておいて」 「脅かしたわけじゃありません。ここ、自動ドアなんですよ。俺の心と同じ」 「は?」 「先輩が近づくと、開くんです」 あんまり可愛いことを言うから、僕は逆にいじめたくなる。 「くさいセリフ言うなぁ」 「ですよね」 「自分で認めんのかよ」 智春の心は、僕のものなんだ。 本当は、僕の方が、出会った時から君の心を手に入れたいと願っていたことは内緒だ。 終 [*前へ][次へ#] [戻る] |