短編集 リキュウルスの丘 本を開いた。卵が孵ったと、騒いでいる声が遠い。 冷えた空気にさらされた、耳は閉じられたように僕を外界から遠ざける。 「君は行かないの?」 顔を上げると、笑顔が近付いてくるところだった。 本を覗き、 「それ、おもしろい?」 と言う。 「おもしろいかどうかは、価値観による。僕は嫌いじゃない」 君は目をみはった。 「嫌いじゃない、って、好きってこと?」 「好きと同義語ではない」 「だって、嫌いじゃなかったら、好きでしょう?」 両極端な意味のとらえ方をする人だと、思った。 「好きという言葉は……」 目線を本に落とした。 「目に見えないものの概念だ。言葉にすることに、価値はないと思う」 君は立ち去ると思った。皆と一緒に、裏山のキバトの雛を見に行くだろうと。 「じゃあ、なぜ本を読んでいるの? そこには感情は書いてないの?」 思いがけず答えがあったので、再び顔を上げる。 君はまだそこにいた。僕の正面に立っていた。 「文章で様々な事象を現わすことによって、感情も見えて来る。好きという単語のみの意味を論ずるなら、時間の無駄だと思う」 「それは君の『かちかん』ってやつでしょ。僕は無駄じゃないと思うな」 僕の時間を無駄にしないでほしい。と、そう思った。 わずかながら、目を細めてしまった。僕が現実を拒否したい時の癖のようなものだ。 「わかった。わかりやすい例えが必要なんだな。例えば、僕は君を『嫌いじゃない』。だが、好きという意味にはつながらないだろう」 普段、話をろくにしない相手だ。 好きになる理由がない。 今日たまたま、僕達は話をした。 僕はたまたま、君の目に止まっただろう。 僕はたまたま、君の興味をひくことを言っただろう。 だから話をした。それだけだった。 だが君は言った。 「そうかな? 僕、君のこと嫌いじゃない。僕的な意味で」 「……」 さすがに答えに窮した。 君の理論で言えば、「僕を好き」という意味になるだろうか。 「それはちょっとおかしな話にならないか。僕は男で、君も男……」 「うん、でも、好き。君は? 僕のことを、嫌いじゃないって言ったよね」 「好きじゃないし、嫌いじゃない」 「えー? 意味がわかんないな」 「たった一言で表せるほど、感情は単純なものじゃないだろう」 笑顔がたちまち曇る君を見て、少し、笑みが浮かんできた。 窓の外に、青が目いっぱい広がっている。今日は美しいほど眩しい天気だ。 僕はしおりをはさんで、本を閉じた。それを机に置いて立ち上がる。 「雛を見に行こうか」 しかめっ面だった君は、笑顔に戻ってうなずいた。 終 [*前へ][次へ#] [戻る] |