短編集 花舞う日に出会う(暗め) 舞台に立つ時、僕は独りだ。 だけどその孤独で静かな空間が僕には心地よい。 スポットライトの中の僕だけの世界。 兄弟子である洋さんは、僕の舞いが気に入らない。 おまえの舞いは圧倒的に自分一人の世界だ。家元はおまえを後継にはしない。と、そう言う。 僕の取り巻き達は、あんなのは嫉みで言っているだけだと言うけれど、洋さんの言葉は正しかった。 僕の稽古に家元は、ずいぶん前から口をはさまなくなっている。何を言っても僕は舞台に立てば、あの清浄な一人の世界にこもりきり、自分だけの世界で舞い続ける。 体は振りを覚えているが、心ここにあらずなのだと。 家元に、師範代の雪之丞(ゆきのすけ)先生の所に、介護を兼ねて習いに行くように勧められたのは、五月のこと。 雪之丞先生は幼少から家元に習って家元から名前を貰った、感情表現が豊かな舞いをする人だった。僕が幼い頃に公演された舞台のビデオを見たけれど、体を壊して今は舞台に立つことはないと聞いている。 表面ばかり美しい踊りをする僕に、内面までも美しく舞う雪之丞先生の舞を習えと、そういうことなのだろう。 僕は誰に師事しても構わなかった。家元が僕を見限るなら、それでいい。家元の近くにいて、内弟子達の派閥争いに巻き込まれるよりもいい。 諾々とその話を受け入れた。 初めて会った時の、雪之丞先生の印象は、なんて若いんだろうということ。 体を壊したと言うから、もっと病人らしいやつれた男かと思っていたが、僕よりも一回り年上の、まだ若く健康的な顔色をした人だった。そして僕が知る他の先生とは違い、厳しさを感じさせない穏やかで優しい人だった。 僕の舞いを見ては、「それが雪千代さんの解釈なんですねぇ」と言って微笑み、稽古を終えると「雪千代さん、ちょうどお弟子さんに貰ったお饅頭がありますのでどうぞ」と菓子を出す。 僕が先生のお世話をすることなんてなかった。何度か、体調を崩したため今日の稽古を休ませてほしいと言う連絡を貰ったものの、稽古に行く日にはなんでも自分で出来ていたし、僕が何かしようとしても止められた。 先生は両親の持ち物だという一軒家に一人で住んでいる為、特に掃除を手伝おうとしたのだが、何かやっていないと体がなまるからと言って断られた。 「十月の合同公演に出ましょうね」 と、最初から先生はそう言った。家元との話し合いで決められていたことなのだろう。 得意な演目は何かと聞かれ、藤娘と答えると、ではそれにしましょうと、あっさりと決まってしまった。一番得意なものなんてないが、僕が幼い頃から習い、最もよく振りを覚えている演目だったから答えただけだ。 先生は五ヶ月で、僕の藤娘を仕上げると言った。 一ヵ月経つ頃になってやっと先生の本格的な指導が始まった。 「僕はあなたの藤娘を見たことがあります。あなたが名取になって最初の公演でした。とても美しい娘でしたね。芸術としてはとても完成度の高い舞いをする人だと、感心しました。しかし、あなたの舞いは完成度が高すぎます」 そんなふうに言われたのは初めてだった。 「あなたが本物の藤娘にのりきれるとしても、少しだけ、気持ちを舞台の外に向けてください。あなたが何を考え、何をしようとしているか人々に見せてほしいのですよ。見せる気持ちがなければ、あなたを理解できない観客もいます。私を見て、美しいでしょ、私を見て、と思うような、自意識の高い藤娘になれるよう、お願いします」 「先生……それでは藤娘の舞いではなく、僕の舞いになります。雪千代の舞いですよ」 「それで構いません。はっきり言いましょう、役になりきったあなたを理解することは並の人間には出来ません。わざわざ見せてあげなければ、見えないのです」 「見えない……?」 「あなたの舞いは美しいですよ。花の精が人間の俗世界など知らずに舞っているような舞いです。残念なことに、人間には人間の舞いしか見えません。花の精の舞いは見えないのです」 先生の言うことは抽象的すぎて、僕が何を意識して踊ればいいのかは、はっきりとわからなかった。 だが先生は何度も言う。 人に「私を見て」と言うような気持ちで踊ってくださいと。 しばらくして、僕はやけに視界がクリアになってくるのを感じた。僕の周りにある薄い壁、それが消えかかってきたのだ。 先生が僕を見ているのを、感じ取れるようになって、また、意識するようになった。 僕を、一挙手一投足を、見ているので、もっともっと僕を知ってもらおうと、躍起になって踊る。そうすると、先生は僕の、いや藤娘の、喜怒哀楽を見て知ってくれる。もっと知ってもらおうと思えば、いくらでも気持ちを表現することが出来た。 僕はいつのまにか、先生に見てもらいたいが為に舞うようになっていた。 家元の周りには争いばかり。 僕はそこから逃げ出したくて、けれど、逃げられる場所なんてなかった。 逃げられるのは舞いの中だけ。 僕を一人の世界に閉じ込めてくれるのは、舞台だけ。 十月公演を目前にして、外は例年より早く寒風が吹いていた。雪之丞先生は今日も、僕に菓子を差し出す。 「雪千代さん、もうすぐですね」 「はい」 「家元にもとても期待しているとおっしゃって頂けました」 「そうですか」 「家元にも、見て頂きたいでしょう、あなたの踊りを」 「いえ……」 僕が見てほしいのは、あなただけです、と言うことは出来ない。家元に見てほしいなんて、誉めてほしいなんて思わなかった。 「今度の公演で家元に認めて頂いたら、お家に帰りなさい」 「なぜですか」 「僕に教えられることはとても少ないからですよ」 「そんな……」 それは技術の面でと言うよりも、先生自身の体の問題だと僕にも薄々感じられていた。 先生はこのところ、やけに痩せたようだ。急激にやつれたのだ。 そして、家のそこ、ここに積もる埃。満足に掃除も出来ていないに違いない。 「先生……僕を公演の日まで、ここに住まわせて頂けませんか」 僕の申し出に先生は静かに首を振った。拒絶のしぐさに僕は食い下がる。 「どうしてですか」 「それは僕が聞きたいことです。どうして住みたいと思うのですか」 「それは、僕は……」 口籠もり、再び言葉を舌に乗せる時には、今まで覚えがないほどの勇気を要した。 「先生のお体を案じているからです」 思ったとおり先生はわずかながらも、驚きを隠し切れない表情を見せた。僕には、可笑しいほどのゆっくりとした時間の中で起こる変化だった。 先生はさっと表情を改めると、 「僕のことは心配しなくても大丈夫です」とそう言った。 でも、と言い掛ける僕の言葉はさらに遮られる。 「僕のことよりもあなたは自分の舞いのことをお考えなさい。舞台では、皆に自分を理解してもらいたいと願う娘でいるのですよ」 「先生、僕は」 「僕はあなたの舞台が成功してくれることが、今一番の願いです」 「先生、僕は、僕の舞いは、先生に見ていて頂かなければ駄目です。先生に見て頂きたいのです。そのために、どうかお体を大事になさってください」 「雪千代さん、ありがとうございます。ですがあなたの舞いは、あなたを見に来てくださるすべての方に見せるものです。私だけにというのでは、お客に申し訳ないと思いなさい。今日は、もう帰りなさい。稽古はしまいです」 先生の強い語調に押されて、僕は稽古場を辞した。そこを出て隣の和室で着替え、普段着になって先生に最後の挨拶をしに行く。 「ありがとうございました」 そう言って頭を下げる時の、なんと寂しい時間。明日の稽古まで会えないことの切なさに、頭をなかなか上げられないほどだった。 先生の家を出ると寒さに身を縮めてジャケットの襟を合わせた。なんということだろう。十月なのにこんなにも寒いなんて。 先生は優しくても、自分の領域には入らせてくれない。病気のことも詳しくは教えてくれない。僕もそんなに詳しいことを尋ねたわけではないが。 駅まで歩き、タクシーに乗ろうとして、ふと荷物を持っていないことに気付いた。先生の拒絶がショックで、着替えた後、荷物を持つことを忘れていたらしい。 慌てて引き返した。 明日も来るとは言っても、全ての私物を置いたままでは困る。 その時、僕はなぜ荷物を忘れて来たのか。 その偶然、あるいは自分の勘に、生涯感謝する。 家に入り声をかけようと稽古場へ行くと、先生は倒れていた。 僕が呼んだ救急車で病院へ運ばれ、入院となった。 後から聞いたことだが、肺の疾患で呼吸困難になることがあるらしい。先天性の異常だが子供の頃は気付かず、二十歳を越えてから発覚したそうだ。 生まれた時から長生きできないと決まっていたなんてね、と先生は病院のベッドで静かな口調で言った。 「舞いを諦めるくらいなら、長生きできなくてもいいと、そう思った時もありました。でも死はやはり怖かったですよ。呼吸が出来なくて、肺が苦しくて藻掻く時、本当に恐ろしかったです」 ベッドの枕元で僕は泣いた。 「先生の死が誰よりも怖いのは僕ですよ」 先生、だから、どうか。 「生きてください。僕の舞いを見てください」 「泣かないでください。あなたの成長は僕自身が舞うことよりも楽しむことが出来ます。あなたの美しい踊りをいつまでも見守りたい」 十月の公演、先生は一時退院をして準備を進めた。僕は先生が見てくれることだけを思い、舞った。 先生、どうか見てください。 美しい僕を見てください。 家元や観客の目など、僕にはやはり、壁の向こう側のものです。 先生だけが僕の世界に入ってきたのです。 ………… 十二月から、僕は先生の自宅に住み込みで看護をしていた。先生は自宅療養を選び、入院を断った。毎日、医者が診察に来てくれるのだが、やはり自宅では設備が悪いせいか肺に菌が入り、肺炎を起こして、ひどい熱を出していた。それでも相変わらず僕に優しい。 医者が帰った後、僕は先生に水を運んで行った。 「先生、お加減はどうですか?」 「うん……」 「お医者さんは何とおっしゃってましたか」 「入院を勧める、と」 「そうですか」 先生は稽古場がある自宅が好きだった。そこには先生の愛した舞いがあるから。 「雪千代さん。あなたの藤娘のビデオ、かけてください」 「え……」 仕方ない。僕はテレビの前へ行き、積んであるビデオの一番上にある自分のビデオを取った。だが、 「それではなくて、あなたの名取初めての舞台の……。その辺りにあるはずです」 「先生、そんな物、持ってらしたんですか」 テレビの両側にある棚をあさると、確かに背に僕の名前があるビデオテープが見つかった。 デッキにセットして再生を押す。流れだした曲と舞台の様子は終盤だった為、一度止めて巻き戻しをした。 「十月の舞台、本当に素晴らしいものでした。雪千代さん……ですが、あなたの舞いはもう死んでしまった」 え、と振り返ると、先生はじっとテレビ画面を見つめていた。 「あなたがこの世界で生き残る為に必要なことを教えましたが、良かったのかどうか、僕は考えてばかりいます。この時の雪千代さんは本当に美しい舞いをしました。本当に、美しい……」 「先生」 「あなたの舞いを殺してしまったのは私です。こんなにも、美しく踊っていたというのに」 先生の目から涙が溢れ、僕は何も言えなくなった。 年が明けて初七日が経たないうちに先生は亡くなった。 元旦には、舞いを見せて欲しいと言われ、稽古場に布団を移そうとしたら、先生はいつもの位置にいつものように座り、音をかけた。 六日の朝に、僕が部屋を訪れた時に、 「雪千代さん、舞いを続けてくださいね」 とそう言われ、涙が溢れた。先生はそのまま息を引き取った。 僕はいつまでも、舞いを続ける。 雪之丞先生、僕の舞いを見て下さいと、願いながら舞台に立ち続ける。 舞台は僕と先生だけの世界。 終 [*前へ][次へ#] [戻る] |