短編集
甘い香り(暗め)
むせ返るような甘い香り。秋が来たのだと知った。
香りに反応して、胸が締め付けられるように痛む。それを堪えながら歩き続けた。
日差しは柔らかいのに風は冷たい。秋のなかを進む。
香りは記憶を鮮明に浮かび上がらせ、この季節になると必ず心臓を絞られる思いをするのだ。
その手紙が来たのは、僕がさんざん彼を無視し続け、半年ほども経った頃だった。
「達樹に僕の全てをあげます。だから僕のものになってください。」
やけに流麗な文字が怖かった。そうだ、将矢は何でも出来て、習字でも賞を貰ったことがあったのではなかったか。
万年筆を使ったのか、文字は当人の神経質さを充分にうかがわせる繊細な筆跡だった。
最後に言葉を交わした時に将矢が何と言ったのか、僕は昨日の事のように思い出すことが出来る。
子供じみた言葉だったのに。僕が悪かったのに。
手紙を握り締めて、将矢のマンションまで僕は走った。
付き合いきれない、と言ったのは僕だった。
幼い頃から知っている将矢は優しい奴だった。
歳が同じでも、お互いがお互いをよく知らない。たまの冠婚葬祭でだけ顔を合わせる仲だった。
それなのに、偶然にも同じ大学に入ったことで僕達は急速に仲良くなった。
僕は文学部、将矢は医学部で、活動範囲も頭の中身も全く違うのに、将矢は僕を気に入ってくれたらしい。なぜ僕を気に入ったのかはわからない。
将矢は頻繁に僕を訪れた。僕に時間を合わせて食堂へ行く、同じバイト先で勤め始める、僕のアパートの近くに引っ越して来る、と赤の他人であったならストーカーのような執拗さだ。もっともバイトは、学業が忙しすぎて勤務を続けることができなくなり解雇されたようだけれど。
僕に好意があることはだんだんとわかってきた。好きだとはっきり言われずともわかる。こんなにもわかりやすい好意があるのだと知った。
意を決した将矢からの告白により、僕達が付き合い始めたのは、大学2年に入る頃だった。
将矢は何でも出来る。
一緒に暮らし始めるとそのことを痛感した。
家事を全部やってくれるだとか、忙しいのに人の課題まで面倒見てくれるだとか、そういうことだけではない。
僕がバイトで帰りが遅くなる日は夕飯を作っておいてくれる。飲み会で遅くなる日は夕飯は用意されていない。肌寒い日には、いつもは使わないマフラーがそっと玄関に用意されている。シャーペンの芯がなくなる頃、買っておいてくれる。風呂に入ると、出る時には脱衣所に洗濯した下着が用意してある。壊れた傘を置いておいたらいつの間にか新品と交換されてる。僕のマイブームの飲み物(時によってビールだったり炭酸水だったりいちごミルクだったり変化する)が冷蔵庫に常備されてる。
将矢は僕のことを何でも知っているかのようだった。僕のことをいつでも見ているのだと知った。母親よりも、僕のことを見ているかも知れない。
なんて楽な相手だ、と思ったのは初めの一年だけだった。
将矢は僕のことを何でも知っていて、何でもやってくれる。そして自分は、成績を落とさず確実に医者への階段を昇っている。同い年だというのに。
そう、単純な嫉妬だった。
僕は彼といると、ダメになると気付いた。
自分も何か人に誇れるようなことがしたかった。勉強でも、仕事でもいい。でも僕はやりたい仕事なんてなかったし、バイトもただ金が欲しくてやっていただけのことだ。文学部に入ったのだって「向いていた」というだけで、好きだったわけじゃない。
無為に生きている自分に気付いた時、将矢が無性に羨ましくなった。
そして、僕に構う将矢が鬱陶しくて堪らなくなってきた。
だから言ってやったのだ。
「付き合いきれない」
将矢は呆然としていた。そうだ、だって将矢は何も悪くないんだから。だが取り乱すこともなく、
「どうしてだ?」
理性的に聞いて来る将矢が憎らしくなった。
「どうって、あんたといると楽しくないんだよ。僕は。だから、もう付き合いきれない」
「達樹、僕に悪いところがあったなら言ってくれ」
「あんたの全部が嫌なんだ」
冷たいことを言った。でも、僕は本当に、彼と一緒にいたら惨めさしか湧いてこなかったから。
これ以上は将矢と一緒にはいられなかったのだ。
すぐに将矢のマンションを出て、また一人で暮らし始めたけれど。将矢はたびたび僕の部屋を訪れ、僕の学部を訪れ、僕のバイト先を訪れた。
友達の家に匿ってもらっていた時、その友人に将矢から電話が来た時は背筋が凍った。将矢は恐らく僕の携帯を勝手に見たのだろう。僕の友人と接点なんか無かったはずなのに、突然電話して来て、「達樹の居場所を知りませんか」と言ったのだ。
友達は、「知りません」としらばっくれてくれたけど。でも、電話を切った後、僕に言った。
「あの人と、早く離れた方がいい。なんか、冷静な声だけど……なんかな、どこか、狂気的な感じがした」
将矢は怒鳴ったりしない。落ちついた声音が崩れたところは聞いたことがない。
だがその狂気を、僕も徐々に感じていた。
最後に会ったのは、バイトの帰り道に待ち伏せされた時だった。深夜の住宅街で、将矢は他人の家の門の内側に隠れて僕を待っていたのだ。
「達樹、お願いだ。僕と一緒に暮らそう」
将矢はいつもと変わらない声で言った。
整った顔を見返しながら不思議に思う。僕ではなくても、恋人ならすぐに手に入るだろう。この男ならば、手に入らない恋人なんていないはずだ。
それが男であっても、女であっても。
「あんたは何でも持ってる。でもあんたには、僕はあげない。あんたは僕の欲しいもの全部持ってるから。そんなのズルイ」
子供じみた言葉だ。僕はそう言い残して帰った。
背中から、将矢の声が聞こえる。
「達樹! 僕のものは全部あげるから!」
僕は答えなかった。僕が欲しいのは、あげられるようなものではなかったから、その言葉は無意味だった。
美貌や才能、気の利く性格、しぐさ、家柄。
すべて、あげられるようなものではない。そして、他人から貰えばますます惨めになるようなものばかりだ。
将矢の手紙を受け取った時、怖かったのは、それが初めて将矢から貰う手紙だったからだ。今までは必ず顔を合わせて会話をしようとしていたのに、ここにきて、なぜ手紙になったのか。
冷や汗が出て、僕は走り出した。将矢のマンションへ。
医学部の学生から聞いてはいた。将矢が最近、大学へ来ないが何か知らないか、ということ。将矢の友人は僕が従兄弟だと知っていたから聞きに来た。僕は何も知らなかったから、知らないと答えた。
僕も暮らした将矢のマンションにたどり着いた時、その扉を開けることをどれだけためらったことだろう。
だけど、もしかしたら躊躇は一瞬のことだったかも知れない。
ポストから溢れている新聞を見た瞬間に、僕は握り締めて来た鍵をカギ穴に突っ込んだ。チェーンはかかっておらず、扉は容易に開いた。
ふわっと鼻腔をくすぐる甘い香り。
部屋中に花を置いているかのような……。だけど、同時に嫌な予感がした。踏み込んだ廊下にはうっすらと埃が積もっているのだ。
部屋は二部屋しかない。勉強部屋か、寝室だ。
勉強部屋の扉は開けっぱなしで、玄関からでも中が見えたので、まっすぐに寝室へ向かった。
薄く開いた扉の向こうは、やけに暗く、やけに静かだ。
僕は恐る恐る、ゆっくりとそこを開けた。
瞬間、手で鼻から口を覆い隠した。
土気色の顔をした将矢がそこに寝ていたからだ。一目見て、息をしていないと知った。
……ありえない。生きている人間ではありえない顔色をしている。
なぜ将矢がそうしてそこに寝ているのか僕は悟ることができる。全てを僕にくれる為だ。その命さえも。
僕が知っている将矢よりも、はるかに痩せていた。だけど今にも目を開いて、「達樹、来てくれたんだね。お帰り」と言って笑いそうな、穏やかな口元だった。
将矢の枕元にへたり込み、その顔を間近に見ると、ああ、やっぱり……笑っている。
将矢は両手を腹の上に乗せていた。その手の下に、封筒があって、何も考えず反射的にそれを取ってしまった。
一通は予想通り「達樹へ」、二通目は「お父さん、お母さんへ」と書かれている。
僕への手紙はこう書かれていた。
「達樹、愛しています。僕はあなたがいれば、他には何も要りません。達樹が僕の何を嫌うのかわからないけれど、今ある僕の全てをあなたに捧げます。どうか受け取ってください。そして僕の達樹になってください。達樹を僕にください。」
僕の家に届いた手紙よりも少し、文字が歪んでいた。それになんて頭の悪い文章だ。将矢らしくない。こんなものは小学生並の文章だ。
馬鹿な将矢。そう思うと、とたんに涙が溢れて文字が見えなくなってしまった。
必死に書いたのだ。必死に。僕を自分のものにすることだけを願って。
将矢の両親に宛てた手紙にはこう書かれていた。
「お父さん、お母さん。僕のものは全て達樹のものです。僕の為にあなた方の全てを僕にください。」
その日、将矢の両親のもとに将矢から、二人の好物の酒が届いていた。その酒に入っていた毒の為に、二人は命を落としたと、僕は後に警察から聞いた。
両親が読めるはずがないその手紙は、将矢がわざと僕に見せるように書いておいたものだろう。僕の心をすべて、自分のものにするために。
そうだよ、将矢、僕はもうあんたを忘れられないし、あんたから逃げられない。
将矢は防腐効果のある特殊な毒で死んでいた。まさに、生きていた頃の面影までも、僕に捧げる為に。
だが服毒するまでに、悩んで悩んで悩んで、何も食べずに痩せ細り、そしてついに決意したのだ。
その毒は遺体から花のような甘い香りがすることが特徴らしい。
まるで金木犀の香りだ。
僕は、秋になる度に、その花の香りがする度に、思い出すのだ。
音もたてず開いた扉、その向こうの風景、香ってくる花の匂い、そして心が千切れるような後悔と哀切を。
終
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