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小咄
初乞い


あの日は確か、秋の宵に鋭い下弦の月が昇っていたように思う。乾いた風に鈴虫たちの声が乗り、深く閉ざされたこの部屋までやってきた。
丁度、お父上が訪ねていらっしゃっていた時で、でも何の話をしていたかは分からない。

覚えているのは、急に聞こえてきた笛の音だけ。







【初乞い】








私は何処からか流れてきた優雅な響きに、心を奪われた。眼の前に居るお父上の話が全く頭に入らない。澄み切った音色は凛としているのに、どこか優しく響いていた。
ぼんやりと音源を辿る私に気付いたのだろう。お父上は何処か意外そうな顔をした後、瞳を細めて笑った。


「………この音色は、」


久しぶりに震わせた声帯は、空気のように掠れた音しか出さない。それでもお父上は分かって下さって、満足そうな顔を見せた。


「あぁ、小十郎だよ。」

「……こじゅ、ろ」

「そう、片倉小十郎景綱。笛の名手だろう?剣術もなかなかのものだよ、」


頭の中で何度もその名前を反芻する。その言葉の羅列は、何だかとても大切なもののようで、安易に口に出来なかった。ただぼんやりと繰り返しながら、その音色を辿る。
そんな私を見て、お父上は何かを企んだらしい。わざとらしく顎に手を寄せ、思い出すような顔つきをして、白々しく呟いた。


「…そういえば、明後日の催しもので剣術を披露すると言っていたなぁ。」








その二日後、お父上の策略にのり、私はまんまと催しものが開かれるという道場に来ていた。
喜多に我が儘を言い、簡素な着物を用意させ身に纏う。鬱陶しい黄金色の髪と不吉な容姿は、あまりに目立ち過ぎるため、頭から腰くらいまで隠れる薄汚れた布を被った。そうして誰も来ないうちに、あまり使われていない物置に身を伏せる。換気用の隙間から左目を覗かせれば、丁度良く道場の全てが見渡せることが分かった。一息ついてから、気配を殺し始める。直にこの道場は人で溢れかえるだろう。自分がこんな所にいるのが知られては拙い。
普段自室から殆ど出ない私が、右目を失ってから無縁であった道場に来たのには理由があった。あの、片倉小十郎景綱という男を一目見てみたかったのだ。二日前笛の音を聴いてから、私は何度も彼という人物を思い描いた。お父上は彼を剣術も素晴らしいと褒めていた。きっと隆々とした筋肉を持った厳つい男に違いない。もしくは、あの音色のように深く研ぎ澄まされたご老体か…。暗闇に彼を描く二日間は、気も漫ろで何も手につかなかった。

野太く厳しい号令がかかり、催しものが始まる。私は慌てて左目を隙間へと押し当てた。沢山の家臣たちが道場の中央を囲むように座り、上座にはお父上が数人の重臣を連れて座っている。本日の催しものは武術の発表会のようなもので、胴着を着ている者もいれば、今日は観衆に徹するのだろう普段着の者も多い。
この中に彼が居ると思うと、私は落ち着かない思いがした。
次々と進行する中、伊達軍の強者達が武術を披露していく。強靭な体躯を持つ彼らは、日に焼けた肌に如何にも猛将という顔立ちをしていた。私は片倉という名前が呼ばれるのを今か今かと待ちわびて、脚が痛むのも構わず食い入るように道場を見つめる。



―――「…はい、」


お目当ての彼の名が呼ばれたのは、本当に最後の方だった。彼の名が呼ばれた瞬間、道場の空気が冷たく棘々しいものになる。にこやかに微笑んでいるのは、お父上くらいだ。その視線の意味は、急に出世し出した彼への妬みや逆恨みの類だろうけれど、私はそんな事など気にならない程の状態であった。
笛の音のように澄んで凛とした声に鼓動は高鳴り、中央に立つ彼の姿に息を飲む。…彼はとても清く美しい人だったのだ。

低い位置で結われた黒髪は艶やかで、すらりとした長身は無駄な肉がついていない。雪のように穢れない肌は指先まで潤い、遠くてよく見えないが、漆黒の睫毛に縁取られた瞳は闇のように深い。今まで中央に立った人の誰よりも若い彼は、胴着ではなく全身真っ黒な袴姿であった。凛と背筋を伸ばし、深く深呼吸をすると木刀ではなく刀に右手を這わす。

舞うように鋼色が走った瞬間、私は腰を抜かしたようにずるずると座り込んだ。物置の扉の向こうから、皆が息を飲む気配を感じる。
でも私はもう立ち上がることなどできなくて、道場に誰もいなくなるまで胸を押さえてその場に丸くなっていた。




―――――――――
―――――
――


「…あの後、お父上からあの話を聞いたときは、本当に嬉しかったよ…」


お父上から小十郎を傳役にと言われたときの事を思い出して、呟く。
初めて顔を合わせた時は、どうしたらいいか分からなくて、ただただ下を向くばかりだった。己の奇異な姿を畏れられるのではないかと姿も見せず、あの湿っぽい暗闇で凛とした彼の声を聞いていたように思う。


「何の御話で御座いますか、」


隣で杯を傾けていた小十郎が、私の呟きを拾った。今宵はあの日のように下弦の月が美しい秋夜であったため、月見酒に付き合わせていたのだ。
お互い大分呑んだせいで、小十郎の目元は薄く色付いている。少し皺は増えたが、それでもあの美しさは変わらない。歳を重ねたことで、更に魅力が出たようにすら思えた。


「私のはつこいについてだよ」


薄く笑みを浮かべてそう言えば、小十郎はきょとんとした幼い顔を見せた。
瞬く小十郎に構いもせず、どれほど鍛えても追い越せなかった肩に凭れ掛かる。愚図るように顔を埋めれば、甘く優しい薫りがした。


「…ふえ、笛を聴かせておくれ。小十郎」


御意に、という堅苦しい言葉の後に紡がれた旋律は、あの日と何も変わらず、澄み切っていてどこか優しかった。

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