小咄 半月に輝く鋼 「…やってらんねぇ、」 そう呟いた景綱の溜め息は暫く白く宙を漂った後、午後の日差しに溶ける雪のように消えていった。 傾き始める日輪を睨み付け、一つの決心を抱く。 …この奥州を去るのは今宵しかないと。 【半月に輝く鋼】 気温は下がり始めており、空気は徐々に身を切るような冷たさに変わってきている。まだ降り出してはいないが、さらに気温が下がった深夜には、空から幾つもの初雪が舞い降りるだろう。 地に積もる白き雪は、出奔者の足跡を隠してくれるし、追っ手を足止めしてくれる。実に好都合だった。 景綱が主の輝宗から今の任を召されたのは、数ヶ月前のことである。 暗がりに身を潜めるように佇む童は、見たことがないような色彩をしていた。暗くて良く見えないが、白髪のような髪に青白い肌…右目には何重にも包帯が巻かれている。やせ細った四肢は刀など握れそうになく、輝宗からこれが嫡子だと告げられた時は、何かの冗談かと思った。 伊達家長男・梵天丸様に関しては、様々な噂を耳にしている。また、乳母の喜多にもよく話は聞いていたが、まさかこんなに酷い状態とは思っていなかった。 そして、その嫡子様の教育係をすることになるなんて…思ってもなかった。 それから景綱には、散々な日々が待ち受けていた。 まず、梵天丸は喋らない。それどころか、自室に景綱が入ることを執拗に拒んだ。お陰で景綱はあの日以来、梵天丸の姿を見ていない。声に関しては、一度も耳にしていなかった。…正直、もう限界だ。 必要最低限の荷物を持って立ち上がる。目の前に広がる暗闇は、静かで人の気配はしなかった。半月は徐々に高い位置へと昇っていく。密やかに踏みしめる土は乾いていて、足跡は残らない。 白くなる息に視界を曇らせながら、景綱は慣れ親しんだ地を離れるべく、歩を進めた。自然に速くなる歩調は、それでも必要以上の音を立てない。自らの耳には、張り裂けそうな鼓動だけが届いていた。 あんな薄気味悪い童…本当に嫡子かどうかも怪しい。噂通り呪われた御子なのだ…右目を失い、母にも見捨てられた白髪の童。妖に取り憑かれてるのかもしれない………。そんなものに構っている暇はない、自分は出世したいんだっ! ――ドクンッ!! 「…え?」 悶々と考えながら早歩きをしていた景綱は、急に立ち止まった。一度大きく脈打った鼓動に混じって、小さな声が聞こえたような気がしたのだ。 驚いて左胸に手を置く。あり得ないほど震える胸に、頭の中は全ての考えを放棄した。真っ白な頭でただひたすら耳を澄ます。いつの間にか今まであんなに煩かった鼓動が、一切聞こえなくなっていた。 『……こ…、…う…?』 景綱は瞳を見開き、すぐに踵を返した。先程とは違い、全速力で来た道を駆け戻っていく。半月は既に山々へ向かって、降り始めていた。胸の音が煩い。息が苦しくなっていく我が身を恨ましく思った。脚がもつれて何度か転びそうになる。 景綱は走りながらどこか冷静な頭で考えていた。――聞こえるはずがない、聞いたこともないのに。と。 やっとの思いで辿り着き、白い息を乱しながら、勢いよく自室に飛び込む。 きちんと閉めてきた筈の襖が中途半端に開いていた。 「ど、うして……?」 月明かりに照らされた自室を見て、景綱は言葉を失った。けして居るはずのない…こんな粗末な場所には居てはならない人が、今にも泣き出しそうな顔で其処に居たのだ。 「なにを、されているのか!梵天丸様!!…こんなところで!!熱でもでたら……っ!」 叱るべき時ではないのに、心配のあまり、思わず声を張り上げてしまう。掴んだ肩はあり得ないほど冷たくて、寝間着の格好で何時から此処に居たのかと考え、ぞっとした。 「…こじゅうろ、」 「!!!」 泣きそうな顔をした梵天丸は、景綱の着物をぎゅっと掴む。 景綱は初めて聴いた梵天丸の声が、まだ耳に残るあの声と一致したことに狼狽えた。何故?どうして?という疑問ばかりが浮かび、答えが見つけられず消えていく。 「おまえを、失う夢をみた。…おまえが遠くに行ってしまう夢。………よかった、」 「…………っ!」 残された瞳を伏せ、そう呟く梵天丸に、景綱は何も言えなくなった。目頭が熱く、鼻の奥がツーンとする。少し躊躇った後、乱暴に肩を掴んでいた手をゆっくり移動し、目の前にあるか細い身体を抱き締めた。 酷く抵抗されるかと思ったが、梵天丸は大人しく景綱の腕の中に収まっている。景綱は頬を柔らかい髪にあて、耳元で囁いた。 「永久に御傍に居りましょう。…死が別つ後さえも。」 何とも言えない想いが溢れて、腕の中の童を潰しそうになる。身体は震え、眼には涙の膜が張った。 梵天丸は景綱の胸元に手を置き、少し身体を離す。そうして至近距離で眼を合わせた。 「…こじゅうろ、」 「はい、梵天丸さま。」 景綱はその時初めて、梵天丸の容姿をしっかりと見た。そしてその美しさに息を飲む。今まで白髪だと思っていた御髪は実は稲穂のような黄金色で、残された左目はそれに似合いの琥珀が埋め込まれている。白い肌が縁取るのは整った顔で、少女のように愛らしく見えた。 以前見た時には巻いてあった包帯は外されており、龍の鱗のように波打った疵痕から濁った眼球が飛び出している。それでも、梵天丸は景綱が今まで見たことのある童の中で、最も美しい御子であった。飛び出した眼さえも、神聖で麗しい。 外では景綱の予想通り、初雪が降り始めたようであった。しんしんと降り出した雪は、音を吸収し空気を澄ます。 「お前は鋼のように輝く瞳をしていたのだな、」 梵天丸は景綱の瞳を覗き込むと、それはそれは美しく微笑んだ。 [*前][次#] [戻る] |