NOVEL 天使の顎 season2 ジュブナイル編
11 *乙姫/dragon*2
どうしてこうも水泳の後の授業は眠いのだろう。
ほぼ全員が眠りこける授業。唯一真面目におきているのが1コースに放置状態でぷかぷか浮いていただけだったチロル。
しかも、担当の教師の都合で今回は大上祇雄が教壇に立って古典文法について語っているが、その声も子守唄に等しい。
チロルだけがカリカリと筆を走らせる中、祇雄はいきなり読み上げていた教科書を閉じた。
「はは、俺なんか死んじゃえ……」
一体何を思ったかはさておき、チロルはなんとかフォローに勤めた。
「それでも生きてるだけがとりえだろう」
「お前、そういうこと言うから首括りたくなるんだろ」
「反骨精神たっぷりだな」
「いいえ、反骨じゃないです。人間として立派なリアクションです。
もういいよ、お前も寝ちゃえ。俺も職員室に帰るから」
「それは許さん」
「…………」
たった一人のために授業を行うのが面倒くさい。
祇雄としてはこのままチロルも寝入ってくれたほうが都合がいいのだ。
「じゃあ、風見さん、223ページから249ページまで全部訳して黒板に書いて」
「ちょっと量が多いんじゃないか……?」
と、言いつつもチロルは立ち上がって黒板に向かう。
「だって、おめ、ほら、今日の範囲がここまでなんだもん」
祇雄が教師用の教科書を広げてチロルに見せる。
きっちりとマーカーでラインが引かれているそれはページをめくると祇雄の言ったところまでで鍵カッコがつけられていた。
「うむむ」
唸りながらチロルが黒板に訳を書き始める。
チョークの音が続いてさらに静まり返る中、祇雄も教壇に伏せていた。本当にやる気の無い教師である。
書き終えたところで祇雄を起こすと、授業終了のチャイムが鳴る。
さも自分は一生懸命授業をしていたかのように祇雄は振舞ってさっさと教室を出て行ってしまった。
最後まで訳したチロルは半目でその背中を見送る。
次々に起き始めるクラスメイトはその黒板を見て驚愕するのだった。
「チロル、真面目だね!」
「あんた凄いよ」
「真面目すぎると思うけど。よくもまぁ、こんなにびっしり。うつすだけじゃん、ラッキー!」
口々にチロルを褒める声が飛ぶ。
中には呆れているものもあったが、やはりこういうことを実際にやってのける風見チロルは特別な存在だった。
乙姫も、そんなチロルを凄いと思っている一人だった。
だが、ここ最近になって、それが素直に受け入れられない。
体中に違和感がある。
こんなの、自分じゃない。
「乙姫」
「え?」
いつの間にかチロルが目の前で覗き込んできていた。
驚いてのけぞる乙姫。
「調子が悪いのか?」
「え、ううん、そんなこと無い。ちょっとびっくりしただけ」
「そうか、昼なんだが、私はちょっと購買によるから――」
「あ、ごめん、あの、あの…………今日は屋上で食べるの」
「? ああ、先約があったか。じゃあ、午後に」
「う、うん」
あっさりと身を引きチロルは廊下に出る。
きびきびした行動がまたうらやましかった。
「…………」
それに比べて、自分はウソまでついて相手を避けようとしている。
頭がずっしり重くなった。
「おい」
「きゃ」
椅子の足を蹴られて乙姫はバランスを崩しながらも声のほうに顔を上げる。
チロルの時の三倍驚いて声が出なかった。
寝足り無いのか元々なのか、鋭い目つきで乙姫を見下ろしている絹夜。
「聞きたいことがある。ウソついて暇になったんだろう、ツラ貸せ」
「う……」
すでに帰るつもりなのか、大してものの入っていないバッグを肩にかけて絹夜は返事もされていないのに教室を出た。
そのまま放っておくわけにもいかず、乙姫もとりあえず弁当を鞄に入れて絹夜の後を追った。
屋上に向かうのかと思いきや、校庭のベンチである。
周りには早弁でもして早速サッカーをしている男子生徒、他のベンチで弁当を開いているカップルなど様々だった。
どっかりとベンチに座って、横を空ける絹夜。
そこに座れという意味なのだろう、あいているほうに出来るだけ距離をとって座る乙姫。
「…………。俺はライオンかなんかか。普通に座れよ」
「う、うん」
それでも一人分空けて座る乙姫に絹夜は遠くを見ながら小さく呟いた。
「大丈夫か…………?」
それは絹夜が言った風には到底聞こえない優しい言葉だった。
「え?」
思わず聞き返してしまった乙姫だが、返事は無い。
「…………。大丈夫だよ」
何のことだろうか。
心当たりはもちろんあるが、それを絹夜には指摘されたくない。
「魔女部からの襲撃が無いならいい。あの派手に動き回っている小林にも無いようだからな」
そうか、そういう意味か。
乙姫が肩を落としかけた時だった。
絹夜がいつもの調子に戻って鋭く問う。
「お前が魔女部にとってどんな位置づけにいるかはわからない。だが、この状況はおかしいと思ってな」
「…………」
「お前は他の連中と違って、能力を解除されたわけでも道具を封印されたわけではない。
事によってはまだ使いようのある魔女部の戦力だ。それにお前の能力はレアな分類だ。
使えるものを目の前にしてお前に手を出さない魔女部の動きが妙だな」
「…………」
責めるような物言いは結果が出ているからなのだろう。
乙姫はうつむいたまま絹夜がそれを言うのを待った。
「お前は魔女部にとって特別な位置づけなんじゃないのか?」
「…………。多分、そうかも」
曖昧に濁したのではない。
本当に、どうなのか乙姫にもわからなかった。
「魔女部の現部長は私のお姉ちゃんなの。お姉ちゃんの考えてることは、私には良くわからないけれど……」
「…………そうか」
特に驚くこともなく絹夜はサッカーボールを蹴りあっている集団に目を向けていた。
情報として頭に入ればそれでいい、それだけの反応だった。
「…………。絹夜君、私、疑われてる……?」
「まぁな。信じてどうなるってんだ。信じても結果はそいつ次第だ。だったら疑ってあらゆるケースに備えたほうが得策だ。
それでも、その上で疑いようも無いならどこまでも信じる」
「…………」
否定も肯定も出来なかった。
相容れない黒金絹夜という生き方。
遠い存在。だからこそ、惹かれている。
「チロちゃんのことも疑ってるの?」
吐いて出た言葉に乙姫は咄嗟に両手で口を押さえた。
「…………。風見チロル…………」
その名をたっぷり反芻して絹夜はゆっくり頷く。
「NGは信用できない。その上で風見は敵だ」
意外な答えだった。
あそこまで協力し合っていたNGを絹夜が否定するとは。
「NGは目的のためならば手段を、正義を、悪を選ばない。目的が同じうちはいいが、少しでも対立すれば連中はどうにでもするだろう。
それに、俺は風見チロルが恐ろしい」
「…………!」
その感覚はどこから来るのだろう。
乙姫もよく味わっていた。
どうしても、彼女のなんらかが恐ろしく思えるのだ。
「絹夜君も、チロちゃんのこと、なんだか怖いって思うんだね……」
「物理的には大した奴じゃないことはわかっている、だが、あれは本能的なものだ。
時には嫌悪すら感じる」
「嫌悪…………」
「ともかく、風見は得体の知れない存在だ。連中が手の内をはっきりさせない以上俺は信用しない。
今のところ、それだけだ。そうだな、それ相応の情報は得られた。じゃあな」
立ち上がる絹夜に乙姫は何か言いかけようとして中腰になったままそれ以上は動けなかった。
情報を得られればいい、それだけの存在だとしたら、それはなんとも恐ろしい。
そのまま腰を落ち着けて乙姫は深呼吸で心を落ち着ける。
自分は絹夜に振り向いて欲しいのだ。
そして、彼が見ているのは、チロルだった。
それがどうしても不安になることだ。
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