先憂後楽ブルース
004
どれくらいの時間が過ぎただろう。リーヤは相変わらずクロエの隣にいただけで看病らしい看病はしていなかった。時たま湿ったタオルで顔をふいてやるぐらいだ。
しばらく落ち着いた時間を過ごしていた時、何の前触れもなく椅子に座っていたジーンが慌てた様子で立ち上がった。
「なんか…おもて騒がしくない?」
「え?」
ジーンの言葉を受けて耳をすませてみると、確かに玄関の方向からがやがやと人の気配がする。
「ちょっと見てくるよ」
「あ、待って!」
歩きだそうとしたジーンをリーヤは引き止めた。
「もしかしたら、タワーの人たちかもしれない」
「…どういうこと?」
ジーンに尋ねられてリーヤはここに来るまでの経緯を説明した。
「俺さ、クロエと夏夜祭に行っただろ。でも誰とも行かないって言った手前、ダヴィットに心苦しくてさ。タワーにいると息が詰まっちゃったんだよ。だからジーンの家に帰りたいってダヴィットに言ったんだけど、許してくれなくて。ダーリンさんに頼んで逃がしてもらったんだ」
口で話すのは簡単だったが、実際はもっと大変だった。クロエのことがバレたらどうしようと悩む日々。帰りたいと言えばそんなにあの男が好きかと問い詰められ、もはや心身共に限界だった。ダヴィットは近頃さらに嫉妬深くなったような気がする。普段は優しい男だが、たまにうんざりするような事を言われるのが嫌だ。そんな場所から逃げ出そうとダーリンさんに頼んだが、大変なのはそれからだった。もちろん彼女には殿下を裏切れない、といつもの口調と無表情で頼みを一蹴されたが、そこは常套手段となったアウトサイダー行動自由の権利で自分の意志を突き通したのだ。今頃彼女はダヴィットへの罪悪感に打ちひしがれているだろう。そう考えると本当に心苦しいが、背に腹はかえられない。
「ということは、この騒ぎは追っ手かもしれないってことだね」
「…うん」
ジーン達に迷惑はかけたくなかったのに。やはりタワーで大人しくしていた方が良かったのだろうか。
「大丈夫、僕に任せて」
「え?」
理解する前にぎゅっと手を握りしめられる。目の前にはジーンの朗らかな笑顔があった。
「僕が話つけてくるから、リーヤはここにいて。きっとうまくやるよ」
「でもジーン」
「心配しないで。説得は得意なんだ」
その言葉にリーヤがやっと納得するとジーンは部屋を出ていった。リーヤはその背中に礼を告げて、眠っているクロエの手を握った。
「……アイツと喧嘩したのか」
ゆっくりと目を覚ましたクロエが唐突にそんなことを言った。一瞬なんのことかわからなかったが、すぐに合点がいった。
「起きてたの?」
「寝てるとは言ってない」
身体をソファーの背もたれ部分にあずけ、体勢をととのえるクロエ。リーヤはそんな彼の手を放し柔らかく微笑んだ。
「喧嘩じゃないよ。俺が勝手に出てきたんだ。クロエ、熱があるんだからちゃんと寝てなきゃ」
「いい、この方が楽」
さっきまで死ぬ死ぬと叫んでいた男が何を言う。リーヤは心の中だけで突っ込んだ。
「クロエもしかして身体治ってきてるのかもしれない。もう一回熱を計って……なに? どうしたの」
ぽんぽんとソファーを叩くクロエに、リーヤは首をひねった。新種の合図だろうか。
「何が言いたいんだ?」
再び同じようにソファーを叩くクロエに近づいた瞬間、手首を引かれそのままクロエの厚い胸板の上にダイブした。
「おい何してんだよ! 放せ!」
突然抱き込まれたリーヤは離れようと抵抗するが、クロエは涼しい顔をしてさらに強くリーヤを懐に引き込んだ。
「ちょ、近い! うつる、風邪がうつるっ」
「暴れんなよ。大丈夫、人にうつすと早く治るって聞いたことがある」
「それ全然大丈夫じゃねえ!!」
クロエの身勝手な発言にリーヤは精一杯抵抗する。その甲斐むなしく完全にソファーに乗り上げてしまったリーヤは、クロエの腕と足に挟まれ抱き枕状態だった。
「こんなの誰かに見られたら誤解されんだろ! なんでこんなことするんだよっ」
完全に自由を奪われたリーヤは抵抗を続けながらもクロエに向かって叫んだ。けれどクロエは顔色一つ変えない。
「──『なんで』? 理由をいちいち口にしなきゃいけないのか?」
「当たり前だ!」
意味もわからずこんなことされる筋合いはない、といつもの強い眼差しで睨みつけてくるリーヤにクロエは口の端を歪めて小さく笑った。
「俺らは友達なんだからいいだろ。何グダグダ言ってんだよリーヤ」
「はあ…!?」
謎の理屈に唖然とするリーヤをさらに強く抱きしめるクロエ。彼の熱が伝わっているのかリーヤの体温もどんどん上がってくる。圧迫感を感じて、なんとか抜け出そうとしてもビクともしない。いったい病人であるはずの彼のどこにそんな力があるのか。
「…クロエ! 友達は普通こんなことしないぞ…っ」
この年にもなって友人同士で抱き合って横になるなど、まず考えられない。変だ。
「基準なんて知るかよ」
そうやってぶっきらぼうに耳元でささやかれて、リーヤは思いがけず固まってしまった。いつもの粗雑な口調の中にほんの少し、嬉しそうな響きが含まれていたからだ。
ぎゅっと強く、でも壊れてしまわないように加減してリーヤを抱くクロエは、まるで親に甘える幼子だった。
リーヤは思った。抱きしめられると、人は落ち着く。もしかしてクロエはあまり人と肌を合わせたことがないのではないだろうか。どう見たって彼は親に甘えるタイプではない。だから温もりが恋しくてこんなことをしているのかもしれない。
自分の中でクロエの行動を意味を理解したリーヤは、彼から離れようとするのをやめた。目の前の友人が望むならそれに応えよう。風邪がうつってもかまうものか。
リーヤは多少の違和感を覚えつつもクロエの抱擁に身をゆだね、そこに優しい温もりを感じていた。
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