last spurt
010
トキが、怒ってる。
それを見るのは何年ぶりだろう。確か前にトキを怒らせたのは、紛れもない俺だった。
「テメェ!」
怒り狂った周りの男達がトキに殴りかかろうとする。けれど驚いたことにそれを桐生が止めた。
「待て。アイツには手を出すなっつったろ」
「でも桐生さん!」
「わかってる」
桐生は真剣な表情でトキを探るように見ていた。普段あまり表に出てこないトキの獰猛な視線が、俺すらも動揺させる。
「桐生、俺とアンタで話つけよう」
トキの提案を聞いた桐生は手の平をかざしながら、ゆっくりと立ち上がった。
「──お前、何を考えてる」
意味合いは違うが、俺も桐生と同じ思いだった。せっかくトキのために何でもしようと決意したのに、これじゃ何もかも無駄だ。それにも関わらず、なぜか俺にはトキの方が優位に立っているように見えた。きっと桐生もそう感じているのだろう。奴の目は獲物を探すヤマネコのように辺りを観察している。
「さすがだね、桐生さん」
トキはふっと笑顔を見せ、いつもの穏やかな彼に戻った。それから何かの合図のように、一瞬だけ俺に視線を向けてくる。
「でも、もう遅いよ。たっぷり時間は稼げた。ここからは対等に勝負といこうじゃないか」
「……なるほど」
桐生の淡々とした呟き言。それと同時に暗闇の中から響く足音が3つ。俺の目の前に、よく知る姿が現れた。
「お前ら…」
喜びと安堵感で俺の口から気の抜けた声が漏れる。思わぬ援軍だ。
「なんだ、まだ始めてねえのかよトキ」
香澄のかすれた声。いつもは憎たらしいその姿も、奴が味方であるということだけで俺の安心材料になる。
「遅いよ、みんな」
この一触即発の雰囲気にトキのたおやかな声が不似合いだ。トキは時間稼ぎをしていたと言っていた。こうなることがわかっていたに違いない。いや、少し考えれば俺にも予測出来ることだった。昔からトキは感情で動く前に頭で考えてから行動する。あんな敵中になんの策も持たず飛び込んでいくはずがない。
まだ桐生達が動かないうちに、真っ先に行動したのはトキだった。彼はそのまま桐生との間合いをつめ、すごい速さで拳を振り上げる。けれど桐生はそれをギリギリのところでかわし、一歩後退した。
「2人を放せ、桐生!」
トキの背中を蹴飛ばそうとしていたカイを、走ってきたらしいヒチが思いっきり殴った。ヒチの顔はトキと瓜二つだが服装も雰囲気もまるで違う。けれどヒチの目もまた、怒りに燃えていた。いつもならコイツは大好きな喧嘩中、瞳をらんらんと輝かせているはずなのに。
「ナオ!」
始まった乱闘をなすすべもなく見ていることしか出来なかった俺に、いきなりトキが抱きついてきた。固まる俺から離れたトキは、俺の自由を奪っている紐を手際よくはずし、足の紐にも手をかけた。
「ごめんナオ、本当はもっと早く助けられたんだけど、全員が来てからじゃないと勝ち目ないって思ったから。間に合って良かった。もう少し遅かったら──」
俺は足が自由になった瞬間、早口でまくしたてるトキに思いっきり抱きついた。トキの無事が嬉しくてとっさにとってしまった行動だったが、トキは俺が怯えてる、または屈辱に震えていると勘違いしたらしい。
「…遅くなってごめん。ナオにこんなことさせて、ごめんね」
トキは、もう大丈夫だよ、と俺の肩を優しく優しく撫で続けていた。けれどその瞬間、俺の目にけして見過ごせない光景が飛び込んできた。
「優哉!」
大切な友人のすぐ後ろに顔面を殴られたらしい加賀見の姿があった。けれど優哉は奴には気づかないで俺の名を呼んでいる。油断は命取りだ。俺はそう何度も忠告したし経験もした。
「クソっ、あの馬鹿!」
俺は慌てて走り出し、優哉が何かされる前に加賀見を蹴り飛ばした。怪我をしていた奴の動きが鈍かったのが幸いだ。そして俺は息つく間もなく、唖然とする優哉の襟首をつかみ彼を怒鳴りつけた。
「ふざけんなよ優哉! テメェなに敵に背中見せてんだ! そんなに怪我したいのか!?」
「…ご、ごめんなさ─」
俺の気迫に押されて動揺しながらも謝ってくる優哉。けれど俺の怒りはまだまだおさまらなかった。
「お前、いま顔に傷がついたらどうなると思ってんだ! ちゃんと自分のこと考えろ!」
そもそもの原因が自分にあることも忘れて、俺は優哉に怒りをぶつけた。学校ではただでさえ俺といるってだけで目をつけられているのに、隠せないところに喧嘩の傷跡など残せるはずがない。
「すみませんナオさん、てっきり気絶させたものと──」
「お前のパンチで誰が気絶なんかすんだよ。倒した相手の膝は必ず潰せ。いつも言ってんだろ」
これは決して、優哉が弱いという事ではない。俺がほぼ強制的にこんな世界へと引っ張り込んでしまったにも関わらず、優哉は頑張ってる。その辺の男達にはまず負けはしないだろう。ただ、まだまだ未熟であることは否めない。
優哉をたしなめて満足した俺はざっと周りを見回した。こちらの方が数は少ないが圧倒的に優勢だ。やはり人数に頼むことは必ずしも正しいことではない。
「おい香澄! そいつは俺の獲物だ!」
憎き桐生を相手としていた香澄に向かって、枯れそうなほどの大声で叫んだ。復讐するなら今しかない。今度は誰にも邪魔させるものか。
「縛られてた奴が何言ってんだよ。お前はそこで黙って見てな」
香澄はそう言ったが、奴の顔は口からの出血で真っ赤だった。桐生も同様で、2人とも足取りがおぼつかない。
「香澄こそ黙ってろよ。俺はコイツを殴らなきゃ気が済まねえ」
桐生は血を流しながらも俺の言葉に笑った。余裕の笑みではない。深手を負った今の自分が俺に勝てるはずがないとわかっていたはずだ。
「これで終わると思うなよ、ナオ」
「そっちこそ」
復讐とはいえ初めから弱っている奴に勝っても仕方がない。難しいが、いつか再戦の機会があることを願おう。
こんなつまらなさすぎる勝負はさっさと終わらせる。そう決め込んだ俺は桐生の人中めがけて、堅く握りしめた拳を思いっきり振り下ろした。
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