last spurt
009
「ナオ!」
頭の奥底の方でトキの切羽詰まった声が聞こえる。こんな時にまで彼が出てくるなんて、やっぱり俺は相当アイツが好きらしい。
「ナオ!」
心の中で1人苦笑していると、再びトキの声が響いた。先ほどよりも、ずっと鮮明に聞こえる。
「お前ら何やってんだ! ナオを放せ!」
「…トキ?」
頭を起こして声のした方向を見ると、驚いたことにそこには彼、橘常盤がいた。本物だ。トキは俺と目があった瞬間、こちらに駆け寄ろうとするが周りにいた男達に食い止められる。反動をつけ上半身だけ起こした俺は、あらんかぎりの力を振り絞って叫んだ。
「トキ! お前何でここにっ、さっさと逃げろ!」
「…ナオを置いていけないよ!」
「いいから逃げろっつってんだろ!」
息も絶え絶えなトキの姿。俺を探すために走り回ってくれていたことはすぐにわかった。でも今は素直に喜べない。この最悪な状況で、彼は救いではなかった。
「これはまた……お前んとこはすげえな。俺は本気で改名を勧めるね」
隣にいた桐生の嬉しそうな声にぞっとした。奴はトキの整った容姿のことをいっているのだ。桐生の歓喜にふるえる視線がトキに注がれていた。
「待て桐生! トキには絶対手ぇ出すな! もしアイツに何かしたら…」
「何かしたら?」
興味津々、といった風に俺を見つめる桐生。そんな奴の目を俺は思いっきり残忍な色を浮かべて睨みつけてやった。
「…お前を、殺してやる」
本気だった。俺は本気で桐生にそう言った。何としてでもトキを守らなければならない。その覚悟だけが俺を動かしていた。
「ふーん」
勘ぐるような眼差しで、桐生は俺とトキを交互に見つめる。そして奴はトキを捕まえていた男達に、こちらへ来るよう手で指示した。
「桐生! てめえ何を…っ」
叫ぼうとした俺の頭はカイによって無理やり上向きにされる。曲がった首に痛みが走った。
「やめてくれ桐生! 頼む、トキだけは……! 俺、何でもするから…っ」
両腕をつかまれ身動き出来ないトキが2メートルほど先にいる。敵の数は桐生あわせて8人。俺は手足を縛られトキも自由を奪われた。勝ち目はない。俺はプライドすべてを投げ捨て桐生に懇願した。
「何でも?」
ぐいっと胸ぐらを掴み上げられ、桐生の顔が触れそうなほど近くなる。悪い予感に背筋が凍った。
「何でも、ってなんだよ。そんなのもののどこに魅力がある。俺はそんなことされなくたって、お前に何でも出来るんだからな」
桐生の人差し指が俺の鎖骨を這う。奴の言ったことは事実だ。コイツの目に手加減や慈悲の心なんてものはない。トキを守るために俺が出来る限りのことをしなければ。
覚悟を決めた俺は、腹を切る思いで桐生に唇を寄せ深く口づけた。ただ唇と唇をくっつけるだけではない。まるで恋人同士がするようなキスだった。
閉じていた目をゆっくり開くと、そこには桐生の驚きに硬直した顔があった。俺は吐息を漏らしながら唇を離し、奴を真っ直ぐ睨みつけた。
「“何でも”だ、桐生」
従順というものに、どこまで魅力があるのかわからない。けれど俺に残された道はこれしかない。“ナオ”を知るトキやカイはその行動に目を見開いていたが、他の男共はしきりに俺をはやし立ててきた。
「……カイ」
「何だ」
桐生が俺の背後にいるカイの名を呼ぶ。その間、俺は一時たりとも桐生から目を離さなかった。
「そこの茶髪には何もするな。無傷でここから帰せ」
「なっ…、お前マジで言ってんのかよ」
「当然」
桐生のその言葉に、俺は心の底から安堵した。むろん桐生が約束を守る保証などどこにもない。けれど俺はこの取引の成功を信じた。そうでもしなければ、トキの身に起こる事への不安で心が押しつぶされてしまうだろうから。
「口開けろ、ナオ」
桐生は下劣な笑みを浮かべることもせず、俺の顎をつかみ淡々と命令した。俺が恐る恐る口を開くと奴はそのまま俺の唇に吸い付いくように口づけてきた。
「やめろ桐生! ナオに触るな!」
トキの悲痛な叫び声だけが俺の耳を支配する。その間にも桐生の舌が口内に侵入して、俺の冷静さを欠いていく。頭の中はトキのことばかりだった。
「ナオ、前に言ってたよな、俺が異常だって」
やっと口を離した桐生がにやりと笑ってつぶやいた。コイツ、ずいぶんと昔の話を持ち出してくる。中学時代の俺はひどく神経過敏になっていた。トキに好意を持つまで、そういう男に対しての偏見は凄まじかったのだ。
「でもな──」
桐生は腕に抱いた俺を押し倒し、話を続けた。
「今のお前見て襲わねえ男の方が、よっぽど異常だぜ」
そんな馬鹿げた考えをするのは絶対にコイツだけだ。出来ることなら奴を罵ってやりたかったが、俺は黙っていた。
「…壊したくなる」
もう一度、服の中に手を入れられパーカーが捲られる。後ろで縛られた手が痛い。再び俺とのキスを求める奴の目からは、抑えきれない欲望が垣間見えた。
「んっ、ん…っ」
口の中で蠢く舌に俺は必死で応えた。歯をなぞられ舌がからまりあい、唾液が口元からこぼれていく。
桐生によってベルトがはずされていった。俺はそれにひたすら目をつぶって耐えていた。気丈に振る舞おうとしたが、本当はすごくこわい。でも、こんな思いをするのがトキじゃなくて本当に良かった。
無抵抗のままズボンがおろされようとしたその瞬間、鈍い音と共に近くにいた男が倒れた。それに気づいた桐生も俺から手を離し振り返る。
男を殴ったのは、トキだ。
「さわるなって言ってんだろ」
今までとは違う、硝子のように尖った声。トキは怒りに拳を震わせながら、桐生を豹変した鋭い瞳で睨みつけていた。
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