夜風の旋律
008:Glacial moon
「飽きたわ」
馬車に乗り込んで早三時間。
こう呟いたのは勿論セレナだったりする。
「俺の顔をじっと見てるからだ。本は持ってきてないのか?」
「それは、そうじゃなくて……。私の愛本は二冊とも昨日のうちに読み終わっちゃったのよ」
まさかこんなに暇とは思わなかったし、薬草でカバンの中は埋まっていたので控えめに二冊しか持ってこなかったのだ。
することがなくてカノンの顔を見ていたのだが、早々にバレていたようだ。
だって、と心の中で言い訳をする。
昨日のあの出来事の後からそれとなく今までカノンを観察していたのだが、やはり始終無表情だった。
顔をしかめることはあっても、笑顔なんて欠片もない。
昨日一瞬だけ見えたあの笑顔が見たいから見てましたなんて言えないが、やっぱりなんだかもったいないなあと思ってしまう。
あの笑顔を見たらどこぞの女王だってイチコロだ。
セレナの場合、それどころではなかったにしろ綺麗だったと素直に思う。
口が裂けても言ってやらないが。
それにしてもカノンの右頬が思ったよりも腫れていなくてセレナはほっとした。
やはり濡れタオルで冷やしたのがよかったらしい。
「右頬、少し赤くなっちゃったけど腫れなくてよかったわ」
「セレナと痴話喧嘩というものができなくて残念だ」
「そんなこと無表情で言わないで頂戴。昨日みたいに少しは笑いなさいよ」
「無理だな」
これまた無表情で即答だった。
つまらない。
これは当分あの笑顔にお目にかかることはなさそうだと視線を前に戻した時、これでもかという程目を見開いた二人と目が合った。
「え、どうしたのよ二人とも。私変なこと言った?」
「つつつつかぬことをお聞きしますが……き、昨日、隊長わわわ笑ったんですか?」
かなりどもりながらハギスが訊いてきた。
カノンが笑ったことがそんなに珍しいことなんだろうか。
「ええ、私の百面相が面白かったみたいで。こう、口元に手を当ててクスクスっと」
せっかくなので再現してあげた。
セレナ自身も多少はびっくりしたのであの時のことはよく覚えている。
それを見た部下二人はどうやら硬直しているようだった。
「ちょっと驚きすぎじゃない? そんなにいつも笑ってないの?」
「だ、だって氷輪のお」
「ハギス」
「…………すみません」
ハギスが言いかけた言葉をカノンが制した。
その先が気になるものの、セレナはカノンに尋ねる。
「氷輪? 冷たく凍ったような月のこと? なに、カノンってそんな風に言われてるの?」
とたん、カノンの表情が苦々しそうに変化する。
「どうでもいいことだ。セレナには関係ない」
「ま、そうだけど、やっぱりもったいないわ。そんな恵まれた造形しといて宝の持ち腐れよ」
「俺はそんなのいらない」
「いいから口の端をつり上げればいいのよ。ひきつっててもカノンの周りにいる女の子はあっという間に落ちるから。あら、もう落ちてるのかしら」
これだけ綺麗な容姿なら笑わなくたって一目惚れするだろう。
とりあえず口の端を引っ張ろうとカノンに手を伸ばしたその時――――
轟音と共に急停車によって浮かび上がったセレナの体は見事に壁に叩きつけられた。
痛いと叫ぼうとして再び爆発音と共に車体が地震のごとく揺れ傾いた。
そして同時に馬車の窓いっぱいに広がる朱色と焦げ臭いにおい。
セレナは軽くパニックになった。
「も、燃えてる! 馬車が燃えてる!!! ちょ、このまま丸焦げは嫌ああ!」
「落ち着け」
「なんであんたはそんなに落ち着いてんのよ!!」
「いいからどけ!」
カノンは右手でセレナを壁に押し付けるとそのまま左足でドアをおもいっきり蹴り破った。
ドアについていた窓ガラスの割れる音と、襲ってくる大量の煙と熱。
木材の焼けるにおいと視界を覆う白。
わけがわからず硬直したセレナの腕を誰かが引っ張った。
恐らくカノンだろう。
なすがままのセレナだったが薬草の入ったカバンだけは守ろうとぎゅっと自分の胸に抱き込んだ。
そして軽い浮遊感と共に視界が開け、カノンに助けられたとわかった時には無事馬車を脱出していた。
「ふえ?」
「怪我はないか?」
「……な、ないわ。あ、ありがとう」
急展開する状況についていけず、カバンを抱き込んだままおろおろと視線を泳がす。
後ろを振り返ればめらめらと炎上している馬車があり、横にはハギスとレイガ、そして馬車を運転していた従者がいて皆無事なようだった。
しかしほっと一息つく間もなく、怪しげな、ざっと10人程度の黒装束の人々が今まで隠れていたのであろう、茂みから出てくるとセレナたちを取り囲んだ。
その中の一人がずいと前に出る。
ローブで顔は見えないものの、ずいぶんと落ち着いた声だった。
「その女を渡せ。さすれば他は見逃してやろう」
「断る。馬車を爆破する時点で皆殺しにするつもりだろ」
「残念だ。交渉は決裂だな」
嬉しそうな男の言葉で会話が終了し、男の合図で少しずつその輪を縮めてくる。
カノンは素早くセレナを自分の後ろに隠すとセレナだけに聞こえるように言葉を発した。
「よかったな。暇潰しになるぞ」
「最悪の暇潰しね」
こんな時に冗談をとセレナはカノンを睨み付けながらそう返して、腰の剣にかけられた右手を見てぎょっとした。
袖は焼け焦げ跡形もなく、剥き出しの肌は赤くただれていた。
ところどころ血がふき出している。
到底剣を振れるような腕ではなかった。
「カノン!!!」
「隊長、狙いはセレナーデ殿です。二人でお逃げ下さい」
「ここは私達にお任せを。足止めの役目はしっかり務めます」
「しかし……」
セレナの叫びを無視して割り込んできたハギスとレイガによって会話が進んでいったが、彼らもカノンの怪我には気づいているのだろう、頑として自分達が足止めすると譲らなかった。
ついにはカノンが折れ、左手でセレナの手首を掴む。
「頼んだぞ」
二人にそう言い残すと震える手で剣を抜き、困惑しているセレナを引っ張って一番手薄な場所の敵に向かって走り出した。
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