夜風の旋律
012:Like deep fog
『相変わらずお前は泣き虫だな』
狭霧と呼ばれた大蛇はその白とは対極にある真っ赤な二股の舌でセレナの涙を優しく舐め取った。
その優しさは受け止められないとセレナはふるふると首を振る。
「だって7年もの長い間、私は狭霧たちを裏切っていたのよ。もう絶対私の声には応えてもらえないと思って……」
『裏切ってはいない。あれは仕方のないことだった。お前も、ソナタも、悪くはない』
「ソナタおばあさま……」
当時のことを思い出し、再びセレナの瞳が涙で溢れる。
彼女に会うことができたら、不甲斐ない自分を謝りたい。
そんなことはもうできないと分かってはいるけれど。
『こら、また泣く。我だけか、再び逢えたことを喜んでいるのは』
「そんなことない。私もとても嬉しいわ」
心配してくれる狭霧が嬉しくて今度は密着する程きつく抱き締めた。
ひんやりする狭霧の肌に高ぶった感情が落ち着く気がする。
狭霧も嬉しそうにセレナの頬に擦り寄せたが、邪魔だというように膝の上に乗っかっているものを胡散臭げに眺めた。
『なんだこいつは。セレナーデも膝枕などする必要はないだろう』
「ち、違うの。私が眠らせちゃったし、それに彼はしがらみから吹っ切るきっかけになってくれたから」
『ふうん、こいつがなあ。ん、なんだ、右腕が酷い有り様だぞ』
「そうよ! いけない、すぐに治療してもらおうと思って睡眠薬まで飲ませて寝かせたのに!」
そこでセレナはようやく狭霧の拘束をほどいた。
一刻も早くカノンの治療をしなくてはいけなかったが、狭霧に会えたことで興奮してすっかり頭から取り去ってしまったのだ。
私の馬鹿、と自分を戒めながら慌てて手元近くにあった小枝を地面に走らせていく。
『ん? 呼ぶのは蒼妃(そうひ)の眷属か?』
複雑な線からできたおよそ魔方陣のような印を見ていた狭霧が独り言のように呟いた。
「ええ、残りの魔力も少ないし、何せ7年ぶり。今の私にはこれが精一杯ね」
セレナは狭霧の方を見ることなくそう返すと、塞がりかけていた傷をもう一度咬み千切った。
そして中心と四方五ヶ所順番に垂らしていく。
『そうか、ならば我はそろそろ下がった方が良いだろうな。お前の負担にはなりたくないものだ』
そう言った狭霧はずるずると躯を這わせて退いていったので、セレナは再び抱き止めた。
「ごめんなさい、私が頼りないばっかりに」
狭霧の気遣いは嬉しいのだが、そんな思いが心に響く。
前は二体召喚などなんてこともなかったのもあり、余計に自分の衰えを嘆いた。
7年。
彼らからすれば刹那程の時だろうとも、こちらでは人生の1割をも凌駕する。
なんて長い間、閉じ籠っていたのだろうとも。
セレナの情けないまでに歪んだ顔を見た狭霧は笑った。
『そうだな、7年ぶりとはいえ、これ程までに弱気なお前も珍しい。いつもの威勢はどこに行ってしまったのやら』
「笑い事にしないで狭霧、本当に、すまない気持ちでいっぱいなのよ」
『それならば早く皆に会ってやることだ。心配のあまり暴れまわっている奴も少なくないぞ』
「…………想像に容易いわ。狭霧からも言っておいて欲しいのだけど」
『馬鹿を言え、あちらがどれだけ広いと思っている。それにお前に会わずして無事を確認できるはずもないだろう?』
「……そうね、近いうちにみんなに会うわ」
うっすらとセレナにも微笑みが垣間見え、狭霧も嬉しそうに舌をちらつかせる。
『それがいい』
「ありがとう狭霧。またすぐ呼ぶわ」
『ああ、楽しみにしているぞ』
セレナが狭霧の額にキスを落とすのと同時に薄い霧がセレナ一帯を覆い、すぐに消え去ったが、そこにもう大蛇の姿はなかった。
セレナは誰もいなくなった空間を見つめてもう一度ありがとうと感謝の言葉を口にする。
狭霧のおかげで、セレナの気持ちも大分整理がついてきた。
初め他でもなく彼を呼んだのは、まだバレたくはないという最後の抵抗だったかもしれない。
しかしそろそろ本気で向き合う時だろう。
あの子達にも、おばあさまにも、そして彼らにも。
目を瞑って深く息を吐いたセレナは一転するように大きく首を振り、先程書いた魔方陣に手を置くと記憶から消えることのない詠唱を唱え始めた。
「深淵の縁より絶えず紡ぐその業よ、脈打つ源を紲とし五神の讃歌を契りとし、誓いを詠いし紫白の如く、ここに汝君臨し我に神奥なる存在を示せ――――蒼菜(あおな)!」
『きゃーセレナさまあーーー!!!』
「ええっ!?」
セレナが詠唱を終えた途端甲高い叫び声とともに衝突され、ものの見事にバランスを崩して後頭部を強打した。
鈍い音が聞こえ、他人事のようにこれは痛いなあと霞む視界を見つめる。
さっきまでの空気は見る影もなく、セレナの上では背中に薄い膜のような羽を生やした10代前半の少女がおろおろとひっきりなしに手を振っている。
何がしたいのかはセレナにも分からない。
というか、呼ぶ相手を間違えただろうか。
『きゃあああ!!!! ごごごめんなさいい!! つい興奮しちゃって!!』
「……分かったわ、分かったから、手を振ってないで私の上から退いてくれないかしら」
『ああすいません!! セレナ様しっかりして下さいー!!』
「…………大丈夫よ」
一気に押し寄せた疲労感は無理矢理気のせいにして、カノンの無事を確認した。
なんとか彼には害は及ばなかったようだ。
安心する間も未だぎゅうぎゅうと抱きついてくる蒼菜を見て、セレナは小さくため息をついた。
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