夜風の旋律
011:Fragile
たどり着いた先には小さな湖が拡がっていた。
湖の周りには芝生があり、この広さなら十分くつろげるだろう。
「うん、ここの湖も綺麗だわ。カノンも水分補給した方がいいわよ」
すでに喉を潤したセレナがそう話しかけるや否や、カノンは何を思ったのか頭ごと湖に突っ込んだ。
いきなりのこの行動に度肝を抜かれたのはセレナの方だ。
「ぎゃ! ちょっと何してるのよ!?」
慌ててカノンを引っ張り出すが、水を飛ばすために頭を振られたのでセレナは大きく飛び退くしかなかった。
どこぞの野良犬か!とセレナだけでなくともこの姿を見た誰もが思っただろう。
外見は血統書付きの高級犬であろうとも。
「……眠気覚ましに。どうだ、水も滴るいい男だろう?」
しかしそう言って髪をかき分ける姿は非常にさまになっていて、セレナは心の中で嘆いた。
そして呆れたように首を振る。
「どちらかと言うと滴り過ぎて台無しね。しかもこんな真夜中の森の中で風邪引いても知らないわよ?」
軽蔑の眼差しでカノンを見たセレナだったが、彼の右腕が視界に入った途端飛び退いた時よりも速く彼に飛びついた。
忘れていた訳ではないが、すぐに診てあげなかった自分が悔やまれる。
「今すぐ右腕を見せなさい。痛みを紛らわすためにこんなことしたんでしょ!」
怪我の部分に触らないように気をつけながらも半ば強引に右腕を差し出させた。
赤く爛れていた腕は今は土色に変色して、見るのも痛々しい。
セレナは弱々しく顔を歪めた。
「……馬鹿。痛いなら痛いって言いなさいよ。これでも医者まがいのことはやってきたんだから応急手当てくらい出来るのに」
「……悪い」
「その謝罪が言わなかったことに対してじゃなく、手当てをさせることについて言っているのならビンタくらいじゃ済ませないわよ?」
「………………」
カノンを伺えば、若干顔がひきつっているのが分かった。
こんなに分かりやすい人だったかと首を傾げたが、セレナは不敵に笑みを浮かべてやる。
「なんで分かったんだ、みたいな顔しないでよ。そんなにビンタしてほしいの?」
「……いや、丁重にお断りする」
さっと顔を背けられたのを視界の隅に捉えながら、薬草の入ったカバンから包帯を取り出す。
念のため、一通りの道具は入れておいたのだ。
セレナは包帯を巻きながらカノンに尋ねた。
「痛みはどれくらい? そしてどういう経緯でこうなったのか説明してくれる? 私を庇ってのことだとは分かってるんだから」
じっとカノンを見つめながらそう言えば、目を逸らしていたカノンも諦めたように語ってくれた。
「痛みは……動かすと激痛が走るが、それ以外は大丈夫だ。 経緯と言っても、馬車から出る時に上から馬車のでかい装飾が落ちてきたからな、空いていた右腕で防いだらこうなった」
「……そう。ごめんなさい」
「いい。後悔はしていない」
威勢を張って言ってみたものの、やはり自分の所為でカノンに怪我させたと分かってしゅんと頭(こうべ)を垂れた。
そんなセレナの頭をカノンは空いている左手で優しく撫でる。
撫でられたと分かった瞬間、セレナは恥ずかしくて後退った。
「……ちょっと、子供扱いしないでよ!」
「そうか? 撫でられたいと思っているのかと」
「思ってないわ! ほら、巻き終わったから湖で冷やしなさい!!」
「……っ、なんだ、濡らしてもいいのか?」
口元に手を添えながらカノンが尋ねる。
セレナは更に憤慨した。
ようやくカノンの笑みが見れたがこれは嬉しくない。
「どうして私をからかう時しか笑わないのよ! 腹立つわ! いいから冷やしなさい。直に濡らして悲鳴をあげたいならほどいてけっこうよ!」
「これもこれで可愛いか」
「カノン!!」
ギロリとこれでもかというくらい睨み付けた。
カノンは肩をすくめて右腕を静かに湖に浸ける。
どうして疲れているのに怒鳴らなければいけないのだ、肩をすくめたいのはこっちだと思ったが、今は手当て中だと自分を戒めてカノンに近づいた。
十分冷やした後、用意しておいたタオルでそっと水気を取り、再び包帯を巻いていく。
特に会話もなく、先程とは違って静かな時が過ぎた。
「はい、終わり。不便だとは思うけど、指一本たりとも動かしちゃダメよ。といっても痛くて無理だとは思うけど」
「……ああ」
そう返事が返ってきたが、さっきの戦闘でよく分かっていた。
再び敵が攻めてきたら、カノンは間違いなくその腕で剣を振るだろうということが。
それは、なんとしても阻止しなければならない。
包帯を片付けながらセレナが思い詰めていると、隣にいたカノンがすくっと立ち上がった。
「どうしたの?」
「少し見回りをしてくる。すぐ帰ってくるから、セレナはここから動くなよ」
「ええと、ちょっと待って!」
すぐさま歩き出したカノンの腕を掴むと、セレナは慌てて小さなビンを差し出した。
中には錠剤が二錠入っている。
「これは?」
「痛み止めよ。用意しておいてよかったわ。動かすのもままならないなら飲んでおいた方がいいわ」
ビンから出してカノンの掌に置くと、それに湖の水を汲んで渡す。
少しめんどくさそうな顔をしたが、カノンは二錠とも口に放り込んで一気に飲み干した。
「これでいいか」
「ええ、あ、ちょっとまだ行かないで! そんな濡れた髪のままだと本当に風邪引くわ! タオルならまだ余ってるから」
なんとかカノンを引き止めると強引に座らせて頭にタオルを被せる。
早く効け、と願いながらゆっくりと拭いていく。
「おい、もういいからいい加減に……」
しばらくして痺れを切らしたカノンが文句を言ったが、途中で言葉が続かなくなる。
「やっと効いてきた」
「セレ、ナ……何を……」
「即効性の睡眠薬よ。安心して、痛み止めの効果もあるから」
「なっ…………」
それっきりカノンからの言葉はなく、代わりに穏やかな吐息が聞こえてくる。
セレナはほっと一息つくと、自分の膝にタオルを敷いて、その上にカノンの頭を乗せた。
「身体もボロボロで一番疲れている癖に。休まないなんて私が許さないわ」
『……相変わらずお優しい方だ』
小さく呟いた独り言に、思いもよらない返事が返ってきた。
セレナもその声に強張ったが、すぐに警戒を解く。
どこから聞こえてくるわけでもなく頭の中に響く声。
懐かしい声だった。
何も見えないが、さっきまでしなかった気配の方向に首を捻るとゆっくり微笑みを送る。
「いろいろとごめんなさい。一方的な別れを告げたのにいきなり呼び出したりして、こんな言葉では済まないわね……。でも許してくれるなら、もう一度だけ、あなたの荘厳で美しい姿が見たいわ、狭霧」
『お前がそう、望むのなら。会いたかったぞ、セレナーデ』
「私もよ……」
ズルズルと這う音が聞こえ、何もない空間から、ゆっくりと、雪のように真っ白な大蛇が姿を現した。
セレナは腕を広げ、先程の炎竜よりは小柄だがセレナの何倍もの長さのある白蛇を優しく、まるで壊れ物を扱うかのように抱きしめる。
ぽたり、と一粒の雫がセレナの頬を撫で、白く輝く一枚の鱗に落ちていった。