秋冬春夏(完結)
8
久我が出社すると、いつかの女性が待ち構えていた。
「おはようございます」
髪をかき上げる仕草に自信が見える。適当に挨拶した。
「前にお願いした件、覚えてます?」
守山のことだ。
「覚えてるよ」
返事しなかったっけ。
惚けると、ふぅというため息が返ってくる。
「ちゃんと写真見せてくれました?」
「見せたよ」
間違いなく見せた。自信をもって即答する。
「何て言ってました?」
これになんと答えるかで悩んだままほったらかして居たのだ。
面倒で、はぐらかすことにする。
「久我さん男前ですねって」
実際そう言ったのは村上だったがそんなことはどうでもいい。
彼女は憤慨したようにそれって、と息を荒くした。
「ちゃんと伝えてくれたんですか?」
「言われた通り伝えたよ」
で、何て。
食い下がるつもりのようだ。
仕方なく、そのまま伝えることにする。
あんまりいい答えじゃないけどと前置きし、君みたいな女性に痛い目に遭わされたらしいねと続ける。
「悪いけど無理だってさ」
ただ伝書鳩になるつもりで、笑顔まで添えた。
すると相手はずいっと顔を寄せてきた。
そもそも背が高い上にヒールをはいているから、目線は久我と大差なかった。
「じゃあ久我さんは?」
彼女にしてみませんか?
一瞬で全身に鳥肌が立った。
丁度席についた松田が、ぎょっとしてこちらを振り返る。
「僕は間に合ってるから」
苦笑いでやっとのこと返事をする。声が震えてないだろうかと不安になった。
にやり、と笑う相手の顔が視界に入る。
「浮気相手でもいいですよ」
「あいにく僕は義理堅いんでね」
「火遊びでもいいです」
なんて強引な女だろう。
信じられない。
呆気にとられた久我は、怒ることもできずただ首を振った。
始業時間を知らせる放送が流れる。
「じゃあまた」
あえて決着をつけずに居なくなる。
狡猾な遣り口に驚いたまま、久我はしばらくぼんやりしていた。
やはり勘は当たっていたのだ。
先日キヨカズの元恋人に言い寄られたのとは違った。
早くキヨカズに会いたいと、強く思う。
やがて松田が話し掛けてきたので、先程の出来事は頭のどこかに追いやられた。
仕事をしていれば色々なことを忘れていられるからいい。
就業時間を過ぎて、バラバラと人が減っていく。
女性がデスクの横を通りすぎた。
甘ったるい匂いが鼻を突く。
みゆきはこんな匂いさせてない。職業柄なのか、性格なのか。母親だからなのか。
母親だからではない。自分の母親はいつも化粧品や香水の甘ったるい匂いを纏っていた。
今朝強引なことを捲し立てた彼女もそうだ。
いつぞや襲われたときも、体にべったりと甘い匂いがこびりついていた。
嫌な思い出がどっと溢れてきて、血の気が引いた。
目を閉じる。
「久我さん、顔が真っ青ですよ」
「だろうね」
口許を押さえて、返事だけした。
松田が心配そうにこちらを覗いている気配がする。
「ダメなときはすぐ言ってくださいね」
妙に具合の悪い人間への対応に慣れた感じだ。
そう言えば、彼女がたまに過呼吸を起こすと聞いた気がする。だから慣れているのか。
そんなことを考えて気を逸らす。
だんだん落ち着いてきて、目を開けた。
「松田」
すぐに頭を仕事に切り替える。
忘れてしまえ。
打合せ机でしばらく話していたが松田は終始心配そうにしていた。
「おかげで落ち着いたよ」
話題が切れたのでそう伝えると、ぱっと顔が明るくなった。
「顔色も戻りましたよ」
誇らしげな表情を見て、可愛いやつだなと思う。
なんだか疲れたから帰ることにする。
携帯を見ると、守山からメッセージが来ていた。
よかったら飲みませんか。
そう言えば金曜日だ。
彼の生活についてはよく分からないが、金曜なら誘いやすいのは誰でも同じようだ。
OKと返事をした。
守山がメッセージをくれてから少し時間が経っていたが、他の人と出掛けていないだろうか。
松田に挨拶して部屋を出た。
歩いて帰るつもりだったが、なんとなく気が急いて電車に乗った。
電車に乗って携帯を確認する。
いつもの店に行きますと返事が来ていた。
地下鉄の出口には、待ち合わせなのかずいぶん人が居た。
かき分けて歩く。
視線を感じて嫌な気分が蘇った。
女性に追いかけられようが見つめられようが、気にしない術を知っていたはずなのに、キヨカズの傍に居るようになって忘れてしまった。
甘やかされたもんだな。
「久我さん!」
ちょうど店の前に到着したらしい守山が手を振ってきた。
「顔色悪くありません?」
会った瞬間に言われるくらいだから相当悪いんだろうなと、久我は苦笑して見せた。
色々あってさと言いながら店に入る。
店内はまだ残席に余裕があった。
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