短篇拾
『 白煙《前編》』
白く立ち上る煙の上を声も無く一羽の鳶が弧を描きながら飛んでいる。
恐らくその向こう側に天国は在るのだろう。
柊輝美は薄く霞んだような空に視線を馳せた。あの空の何処かに栄一郎はいるのだと信じた。
予鈴が鳴ると各々物思いに耽っていた教師達が重たそうに身体を動かし始めた。まるで遊牧中の牛の様だと輝美は思った。
誰しもが疲れているのだろう。自分の言い分ばかりを通そうとする生徒。聞き分けのいい振りをして裏で嘲っている生徒。自己主張の強い生徒。そんな中に身を置く教師――それを罵る親。
一体この環境の何処に安らぎが在るというのか。
輝美は溜め息を吐くと机の上に準備された教科書を小脇に抱えて席を立った。
「柊先生は勤続されてどれくらいになります?」
輝美の後から新任である槙村奈緒美が声を掛ける。 輝美は一瞬竣巡するかのように天井を見上げてから、
「そうさなぁ、もう二十年になるかねぇ」
「そうなんですか?そしたらもう子供のことも良くわかりますよね」
「ん?」
「私、分からないんです。生徒のことが…。年齢も近いし解ってあげられると思っていたんですけど…
」
奈緒美は胸に抱いた教材を握り締めると、
「そうじゃないみたいです」
と、憔悴したような顔で苦笑した。
「まだまだだよ、私も。同じ人間であって異物のようだ。私と君だってそうかわりはしないだろう」
輝美は廊下の先にある窓から漏れる光に目を細めた。
「同じ人間であっても他人なんだから、そうそう簡単に分かり合えるもんじゃない。それを思って接していれば何時か分かるかも知れない。そんなもんだよ」
「そんなものでしょうか?」
「そうそう」
輝美はそう笑って見せると窓の外に視線を向けた。
廊下を進む程に老いた輝美の目を初夏の日差しが焼く。ショボショボと瞬きをしても一向に慣れることは無く一層瞼の裏に鮮烈な光を残す。
「それじゃ」
奈緒美は突き当たりを左に曲がり二組の教室へと向かう。輝美は右に曲がり四組の教室へと向かう。四組は直ぐの教室だ。ざわめきが聴こえる。左半身に日差しを浴びながら、輝美はもう一度窓の外を見ようと目を向けた。
陽炎が立った気がした。
あの夏の日差しを浴びながら、校庭までの坂道を全力疾走した記憶が甦る。
磯村栄一郎。享年15歳。
それほど目立った生徒では無かったが模範的な生徒ではあった。
16年前の今日、彼は自らの命を断った。
入水自殺だった。
何故彼が命を断ったのか輝美にはどうしても解らなかった。彼の父親は酒乱で酔うと必ず母親を殴ったらしい。しかし彼に対してそのような行為を働いたことは一度も無かったと母親は云っていた。それならば何故栄一郎は死ななくてはならなかったのか。
やはり輝美には解らなかった。
輝美は大学院を出て、研究室に身を置いていたもののそれ以上求めるものは無く、ただ惰性のように研究室での生活を送っていた。正直、将来有望な才能があるわけでもなく、かといってやりたいものも見つからない。そんなつまらない人生に飽々していたころ、中学の頃の恩師が結核でこの世を去った。今の様に医療が発達していたわけでも無かったため、弱っていたところに肺炎を患い亡くなった。
白く立ち上る煙を眺めながら、周りから漏れ聴こえる嗚咽に感化され、輝美は涙を流した。
その時こんな人生も悪くない、と思った。人生の最期に泣いてくれる人間が幾人かいてくれるだけでも生きていて良かったと思えるような人生を送ってみたいと思ったのだ。
しかし、やはり自分はそのように出来てはいないらしい。元々の動機も不純であるからして、大義名分などそんなものは持ち合わせていなかった。生活は研究室時代と何ら代わり映えのしない、実験材料が子供に変わっただけだった。実験と違うのは相手に感情があるということだ。モルモットより複雑で不可解な生体は、自分と同じ人間でありながら全く別のものであった。それが輝美を苦しめたが従来の惰性的な性格が幸か不幸か教師という職業を二十年間続けることが出来たというだけの話である。
教室の扉を開けると、それ迄の喧騒が嘘のように静まりかえる。しかしその表情は悪戯に笑い目配せで確認しあっている。それらは一体何に対する配慮なのか。長い年月をかけてもそれらは解読することは出来なかった。寧ろ年をおうごとにそれらは難解になってゆくばかりでとても奈緒美に助言など言えるはずも無かった。
この不可解な視線の海を自分は一体どれくらいの時間泳いでいたのか。それを思うと正直なところ辟易した。出席を取り教科書を広げる。何も代わり映えのしない退屈で平凡な日常。彼らがこの学舎を離れるまでの仮初めの籠の中で自分という存在は何の意味をもたらすのか。輝美には見当もつかなかった。
右の肩が重い。
左の膝が痛む。
横隔膜が軋む。
変動するのはこの老いさらばえた体のみである。
教室に降り注ぐ目映いばかりの日射しが生徒の体を柔に包み輝美の目を突き刺す。
あの時の日差しも暖かく凡てを包み込むほど目映く輝いていた。まだ教師という仕事にも、僅かばかりの希望を残していた。そんな頃だった。
あの時の白煙は今でも記憶の中に鮮明に残っている。
あの瞬間、輝美は教師という仕事に絶望したように思う。否―――
教師というよりも自分という人間に絶望したのだ。
所詮自分という人間は誰も救うことなど出来る筈はないのだと。矜持も主観性も持ち合わせない自分に他人に対してどうこう言えたものではないし、あわよく経験の中で身に付いたことも、たいした価値はなく、その事を受け売りにしても相手には届く筈もないのだ。
長く喧騒の中に身を置いていても、輝美にとってそれらは最早苦痛の対象でしかないのかも知れない。
終業の鐘が校舎に鳴り響く。それらは重く澱んで近隣まで届く。そしてそれは輝美の耳には懺悔の為に鳴らされた鐘のようにも感じられた。手荷物を纏めながら酷く栄一郎のことばかりが思い出された。ここ暫くは思い出すことも無かったのに。
職員用の玄関を出て、駐車場へと向かうために裏庭へと足を向けた。その脇の細い路地を抜ければ専用の駐車場がある。その少し手前に作られた鶏小屋が目につく。中には数羽の鶏が餌をつついている。その周辺は鳥籠特有の臭いがする。輝美はそれを横目に見ながら再び栄一郎のことを思い出した。
あれは栄一郎が亡くなる一週間前だったと思うが定かでは無い。
その頃栄一郎は飼育係を任されていた。模範的な生徒は朝早くに登校し、いつものようにケージのなかを掃除するはずであった。
ところがその入口の扉は壊され中にいた五羽の鶏全てが無惨に切り刻まれていた。契れた羽根が、地面が、膝を抱えて蹲る栄一郎が血で汚れていた。輝美は辺りに立ち込める血の臭いに吐き気がした。小さな栄一郎は震えていた。どうしたと声をかけても、しゃくりあげるだけで答えを返してはくれない。
『…磯村』
輝美の声に怯えて肩を震わす栄一郎が痛ましかった。
『もう大丈夫だから』
僅かに上げられた顔にも鶏の血がこびりついていた。
『…な、磯村。大丈夫だ』
『…先生、僕』
『ん?』
再び伏せられた顔と漏れ聞こえる嗚咽。
震える小さな肩。
『…恐い。…僕、恐いよ』
栄一郎の身体に埋もれてくぐもったか細い声は聞き取り難かった。
鶏の鳴き声が無くて良かったと輝美は不謹慎にもそう思った。
『ああ、もう大丈夫だよ』
この辺だったかなと思い出す。
裏庭の途切れる草木の間に捨てられたバタフライナイフが見つかったのは、栄一郎が亡くなった一ヶ月後の事だった。
――可哀想に。
あの子ばかりがこんなめに遇うのは理不尽だとそう思っていた。
暴力を振るう父親。
それだけで栄一郎の小さな身体は押し潰されそうだったに違いないのに。
自分は結局彼に何もしてやることはできなかった。何か出来る自分でもなかった。それは16年過ぎた今でも何らかわらないのだ。
子供らの声も、周りの雑踏も自分の耳には届かない。聞こえない。否、聞いていないのだろう、そう思う。
『先生は何で先生になろうと思ったんですか?』
栄一郎が何かの弾みに聞いてきた事だった。
『誰かの役に立てればと思ったんだ』
『そうなんだ。すごいね、先生』
『何だ、先生になりたいのか』
『うーん』
彼は年に似合わないような苦笑いをして、
『…僕は先生にはなれません』
呟くような一言に違和感を感じて、その後に見せたあどけない笑いに全てを呑み込まれたように感じたのを覚えている。
何故彼が「ならない」でなく「なれない」といったのか。勉強がきらいなのか、それとも別になりたいものがあるのか。輝美には判断することはできなかった。
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