山茶花の小説
樽チェアのこと   その後7

 ひと泳ぎして体も頭もすっきりすると、海に入ったのなぞ何年ぶりのことだったのか気付いた。ずっと薄暗い冥界にいて明るい空の事など、すっかり忘れていた。
 聖域に赴くようになっていつも感じていた違和感の正体はこれだったのだ。南欧特有の底抜けの明るさ、それこそが自分と相容れないものの正体だった。

 カノンに魅かれるのもそのせいも知れぬ。カノンの持ち前の明るさに自分は慰めを見出しているのかもしれない。
 カノンのことを思い出したら急に顔を見たくなったラダマンティスは、抜き手を切って海岸へと向かった。

 隆々とした逞しい筋肉に鎧われた体躯は、ビーチの人々の視線を集めた。羨望のまなざしと、嫉妬のそれと遥かにいかがわしい目線とが纏わり付く中を、王者のように悠然と歩く。
 鬣のような硬い蜂蜜色の髪よりも、幾分か濃い色のふさふさとした豊かな眉の下にある猛禽のように鋭い目に、自分達のパラソルの下で立ち話に興じる美人達とにこやかに応じるカノンの姿が眼に入った。

 女たちはくすくすと可愛らしく笑いながらカノンに意味深な目線を投げかけている。まんざらでもなさそうな表情を浮かべている恋人に腹が立った。

 険悪な感情が顔に出たのか、闖入者たちはこちらをちらちら伺いながらそそくさと自分たちのパラソルから離れていく。

「なんなんだ、あの女たちは!?」
 憤りをかくせず、八つ当たり気味に問いかければ、チェシャ猫のようににんまりした笑顔を返されて憮然とする。

「金持ちの観光客にたかろうとする高級売春婦さ」
 驚くラダマンティスを尻目に滔滔とカノンは続ける。
「俺がただの秘書で、金持ちなんかじゃないって言ってもなかなか信用してくれなくてさ。助かったよ」
「おまえ…妙にくわしいな?」
 困ったように笑うカノンに最前からの疑問をぶつけてみる。
「…似たような事をやってた…まだ、ガキの頃だがな…」
 思いがけない告白に、ラダマンテイスは琥珀色の瞳を細めたまま沈黙を護る。

「12くらいで、自分の体が金に換えられるものだってことに気が付いた。13か4の頃には金持ちのジジイを誑かして囲われ者になっていた。どうにかして此処から…いや聖域から出て行きたくて、そのためにはなんだってした。3P,4Pくらい当たり前だった。宝石をジャラジャラぶらさげたばあさんとだって寝た。俺をサガの影と決め付けた聖域のヤツらを出し抜いて自由になりたかったのさ」
 うつむいたカノンの顔にパラソルの影が落ちる。

「…だけど、そのたびごとにサガに連れ戻された。何度も脱走を繰り返す俺を何度も聖域へ連れ戻し、冷たい双児宮の地下室に閉じ込めた。もうその頃の俺には双児宮の封印など簡単に開ける事ができるようになっていたんだがな。……そのうちとうとう痺れを切らして、俺をスニオン岬の水牢に閉じ込めたと言うわけさ」
 
 泣いているのかと思いきや、カノンは静かに笑っていた。13年の月日がこの兄弟の間のわだかまりを溶かしたものなのか。ラダマンテイスは無言のまま、カノンの頭を抱き寄せた。

 トクトクという力強い心臓の鼓動を聞いていると、それだけで癒されているような気になってくる。自分とも、兄とも違うそのリズムに身を任せてカノンは静かに涙を流した。

 強情で意地っ張りのカノンの頬を濡らす、ほんの一筋だけの涙のあとはひどくはかなく、頼りなげに見えた。

 ラダマンティスは何も見なかったふりをして、ただじっとカノンの好きなようにさせていた。


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