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短編
たぶん幸せな人生、のとある朝


新聞配達のバイトが終わってから、走って彼の家に急いだ。
立春は過ぎたとはいえまだまだ寒い。その上、今の時間は早朝だ。
首に巻いたマフラーに鼻先まで埋めてみるけど、薄いそれを通してもなお息は白い。
耳は寒さにキリキリと痛むけれど、それでも僕の胸はぽかぽかと暖かかった。
手に抱えた温かいパンだけのせいじゃない。

きっとこの暖かさは、僕に芽生えた恋心の所為のはず。


「おじゃま、します・・・」

ドアの前で上がった息を整えてから、いつだかもらった宝物の合いかぎを使って静かにドアを開ける。
広い玄関に、けれどバラバラと散らばった靴。
それを簡単に整えながら、音をたてないようにして静かに廊下を進む。
リビングに入れば、転がっているワイングラスに瓶。
そして、まるで脱ぎ捨てられた洋服のように散らばっている、綺麗な付け爪。
その綺麗な細工にほぅ、とため息をもらしながら、ゆっくりと寝室につながるドアを小さく開けて、中を覗き込んだ。

寝室には遮光カーテンがかかっているせいか、中は真っ暗だ。
けれどリビングから差し込む光で、少しだけそのシルエットか浮かび上がる。
脱ぎ散らかされた洋服に、アクセサリー。
そして、大きなベットからは、片腕だけがはみ出して垂れ下っている。
彼に似合わないそんな幼い姿を見て、ふふ、と小さく笑みをこぼしてしまった。
ベットに横たわる体躯のそばには、そのほかのシルエットは見当たらず。

今日は、居ない日、かぁ。

再びゆっくりとドアを閉めながら、安堵のため息をついた。
彼が一晩過ごした相手がいる日は、やっぱりどうしたって胸が痛む。
わかってはいるし、それについてなにか文句を言うつもりはないけれど、やっぱりさみしいのだ。
それを彼に言うことはない。
そんな時は、ただ、ひっそりとため息をつく。
けれど今日は、早めに帰ってしまったようだった。
しかしアクセサリーや先ほどの綺麗な付け爪は残されていたので、集めて何処かに保管しとかなきゃなぁと思いながら、僕はリビングの酒瓶を片付けつつ、彼の朝食の準備に取り掛かった。






最近の俺の朝は、やさしい音と香りとともに訪れる。
ことことと鍋が煮える音、まな板の上を包丁が滑る音、魚が焼ける匂い、やさしい空気の匂い。
全部全部、俺が昔から望んで手に入らなかったものだ。
ふと意識が上って、穏やかな気持ちで目を開いた。
遮光カーテンがかかっている寝室は真っ暗だ。
それでも、少しだけ空いているリビングとつながるドアの隙間から、生活の音がする。
無意識に笑みを浮かべて、のっそりとベットから起き上がり床に足をつける。
その時足に固い感触が当たって、顔をしかめる。
身をかがめて手にとってみれば、女物のピアスだった。
グロテスクなほど宝石が連なる高そうなそれは、確か昨日ヤった相手のものだったはずだと、寝起きの頭で思い出す。
そこからは連鎖して昨晩のことを思い出して、途端に穏やかな気分が崩れさる。

また、アイツじゃない女を抱いた。
しかも、この部屋に呼んでだ。


朝には、アイツが来ると知ってて。


わかってて、何度も繰り返してしまうのだ。
今までの人生で覚えのない自分の愚行に、思わず舌打ちが漏れた。
嫉妬させたくて、泣かせたくて、取り縋ってもらいたくて何度も浮気を繰り返している。
けれどいままで上手くいったためしなどない。
残されたアクセサリーを見たって、使用済みのコンドームを見たって、一緒に裸の女と寝ている姿を見せたって。

「お前は・・・俺の恋人じゃねぇのかよ、」

ただ悲しそうに笑うその姿を見るたびに、悔しさと後悔が押し寄せる。
もう、愛されているのかもわからない。
本当に恋人なのかも怪しいところだな、とピアスをごみ箱にたたきつけながら自嘲気味に頬を歪ませた。
けれど、と思いながらリビングに続くドアを開ける。
差し込んできた光に、一瞬目がくらみ目を細める。
明るく、暖かく、優しい。


「あ、おはようございますっ」


どんな朝だってそう幸せそうにほほ笑んでいるお前を見るたびに、俺はお前を無くせないと思うんだよ。




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