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08
 いつもされているじゃれ合いと何も変わらない筈なのに、目の前に迫る顔は何処か切羽詰まっていて、今にも泣き出しそうな表情を浮かべながらルーイがグレイヴを見て居る。
「どうした?」
「あうぅ…う…」
 グレイヴの手を取るとルーイは自分の頬に押しつけて頭を擦り寄せる。
「う…」
「……ああ、そうか…」
 自分が今にも泣き出しそうな声でこんな話をしたからか。そうグレイヴは思った。
「心配してくれんだ」
「う…」
 ルーイがそっと目を伏せた後、グレイヴの胸に額を当て甘えてくる。
「……暖かいな、お前」
 ルーイの髪の毛を遊ばせるように指に絡めながら視線を床へと落とせば、転がった二つの白いカップが目に入った。片方から流れるのは黒い液体。もう片方から流れ出たのは白い液体。それが互いに近くなり丁度交わった所で色を変える。
「後で……床、掃除しないと…」
 こんな時に浮かんできたのは本当にどうでも良い事で、グレイヴは思わず苦笑を浮かべた。

 山奥での一人暮らしの生活から、奇妙な同居人が増えた事による二人暮らしへ変わって以来、グレイヴの生活に大きな変化が出来た。
「お前さん、最近笑う事が増えたじゃねぇか」
「え? そうかな?」
 おやっさんと呼んで慕う年上の同僚に背を叩かれ、グレイヴは困った様に眉を下げる。
「何だぁ? これか?」
 小指を立ててからかう同僚。グレイヴは即座に否定した。
「違うって。親戚が遊びに来てんの」
「ほほう」
 おやっさんは意地の悪い笑みを浮かべてグレイヴを見る。
「まぁ、そう言う事にしておいてやりましょうかね」
「ちょっ、俺は嘘は言ってねぇよ! おやっさん!!」
 家族が居なくなってから何時だって人とは有る一定の距離を置いて付き合ってきた。自分から歩み寄ろうとしない為、その溝が埋まることは決してない。それでいいと思って居たのに、たった一人家族が増えただけで心は大きく変化したようだ。
「お? もう帰るのか?」
 業務が終わり帰り支度をしていると、別の同僚から声を掛けられる。
「ん。街まで買い出しに行きてぇから上がるわ」
「そっか、お疲れさん」
「お前もな」
 早く家に帰りたい。そうじゃないと、ルーイが不貞腐れてむくれてしまう。何だかそんな些細な事が嬉しくて、思わず零れ出る鼻歌。グレイヴはトラックに乗り込むとエンジンを掛け、クラッチを離しながらギアを動かした。
 ルーイとの生活は本気で大変だと感じてはいる。先ず、行動が人間っぽくない。どことなく獣に近い印象を受けるルーイに、グレイヴは一から人間社会のルールを教えてあげなければならなかった。一緒に生活をすると決めてから最初の数週間は、本格的な物覚えの悪さに手を焼かされた。服を着るのは嫌がるし、風呂に入るのも抵抗される。何処でも自分に飛びついてくるし、食事の時は手掴みどころか皿に顔を突っ込んで食べる始末。そして一番最悪なのは、それを悪い事だと認識していないこと。コップの中の水を飲むにしたって、いちいち机の上だの床の上だのに零してから、其処に舌を這わせて飲むもんだから、慌てて止めに入るこっちが何時もはらはらさせられる。最近ではやっと服を着ることにも慣れ、コップから飲み物を飲むことが出来るようにはなったが、まだまだ食事の時は手掴みで物を食べ気を抜くと皿に顔を突っ込むし、風呂は本気で嫌がるのでグレイヴが押さえつけるようにして強制的にルーイの体を洗っていた。
 また、ルーイは思った以上に甘たがりだった。離れているのが嫌だとでも言うように、隙あらばグレイヴに抱きついてくる。それはまるで構って欲しいと全力でアピールする犬と一緒。仕事に出る前は本当一苦労で、毎回小さな格闘をやり合った後、無理矢理ルーイを引き剥がして家を出る日々が続いている。
「今日も飯食ってねぇのかな? あいつ」
 グレイヴの居ない間、ルーイはじっと玄関先で待っていることが多い。その間食事は一切しない。温めて食べろと再三言ってはいるし、食事の有る場所も分かりやすいところにしてあるのに何故か一切手を付けないのだ。代わりにグレイヴが帰宅するとアホみたいに食べる。
「全く…」
 可愛いんだが疲れる。
「早く帰ってやらないとな」
 しかし、そうは思いながらも矢張り下に妹が居ただけあり、誰かの世話を焼くという事に喜びを感じないわけではなかった。スーパーマーケットの中で籠に必要な物を投げこみながらグレイヴは嬉しそうに笑う。
 グレイヴの居ないロッジの中はしんとしていて酷く寂しい。ルーイは抱えていた膝を引き寄せその上に顎を乗せて小さな溜息を吐く。ゆっくりと視線を向ける先は玄関の扉。それが開く気配は今のところ無い。
「…………」
 再び溜息を吐いて目を伏せると確かに聞こえてきたタイヤが砂利を踏む音。ばっと顔を上げるとルーイの顔が一気に明るくなった。耳を澄ませ外の気配を探る。ガレージの方へ車が移動し回転を止めたエンジン音。暫くしてドアが開き靴の裏が砂利を踏む音が耳に届く。グレイヴが扉を開いて顔を見せるまであと少し。ルーイは嬉しそな表情を浮かべながらじっとその扉が開くのを待つ。
「ただい…」
「!」
 扉が開くのと同時に立ち上がり駆け出す。僅かに扉を開いたグレイヴがしまったと言う表情を見せ慌てて扉を閉めた。音を立てて閉まった扉の向こうで何かがぶつかる音。多分これは、派手にルーイがぶち当たったのだろう。
「危ねぇ…」
 閉ざされた扉の向こう側から必死にドアを叩く音が聞こえてくる。早くドアを開いて中に入りたいのはこっちも一緒。だが今日は荷物を抱えている。飛びつくのだけは勘弁して欲しい。少しずつ扉を開けると膨れ面で此方を睨むルーイと目が合う。
「悪かったって。でも荷物を持ってたから飛びつかれたくなかったんだよ」
 そう言って宥めてやりながらロッジの中に入ると、グレイヴは真っ直ぐにキッチンを目指した。
「ルーイ」
 最近になって漸く『ルーイ』が自分のことを指す言葉だと理解したらしい。呼べば直ぐに寄ってくる。
「お前、また何も食べていないな?」
 冷蔵庫の中には朝にラップをかけたまま放置されている食べ物達。
「いい加減、俺が居ない時でも一人で食事くらいはしてくれよ」
 言っても無駄だと判ってはいるが言わずには居られない。叱られたはずのルーイは言っている意味が分からないと言いたげにじっとグレイヴのことを見たまま首を傾げる。少しだけ赤くなった鼻の頭を指で弾けば、さっきのことを思い出したのか途端に不機嫌な表情に切り替わった。
「取り敢えず食事が先だな」
 膨れ面になったルーイを放置したまま冷蔵庫からラップのかかった皿を取り出すと、電子レンジに突っ込み温める。その間に自分用のコーヒーとルーイが好んで飲むホットミルクを用意する。レンジの温め終了のアラートが鳴れば蓋を開けて中身を取り出しラップを剥がして食卓に乗せた。
「ほら、飯だ。ルーイ」
 続けてマグカップを二つ机の上に置くと、二脚ある椅子の内、皿の乗っていない方の椅子を引き其処に腰掛けルーイにもう一脚に座るよう促す。
「ルーイ?」
「…………」
 いつもなら直ぐに椅子について食事を始めるのに今日は何故か始めに立った位置から動く気配がない。
「おいおい」
 これは完全に捻くれモードらしい。顔を見れば思った通り恨めしそうな眼でグレイヴを睨みながら頬を膨らませていた。
「全く……仕方ねぇなぁ…」
 持っていたマグカップをゆっくり置くと、グレイヴは椅子を動かしルーイと向き合った。
「ほら、おいで」
 腕を広げておいでと誘うとルーイはそっぽを向いてしまう。
「ルーイ」
「…………」
 顔は向こうに向けたまま。偶に眼だけでグレイヴを見るルーイ。
「早くおいで」
 暫くそうやって待っていると段々ルーイがそわそわとし出す。此方を盗み見る回数が増えれば後一押し。
「ルーイー?」
 どうしたんだ? そんな風に言ってやれば、ルーイはとことことグレイヴに歩み寄り勢いよく抱きついてきた。
「!」
 さっきまでの不機嫌さは何処へやら。物凄く嬉しそうに笑いながらグレイヴの胸へ頭を擦り寄せ甘えてくるルーイ。
「…やれやれ…」
 ルーイと共に生活するようになって扱いが慣れてきた自分に思わず渇いた笑いが零れ、グレイヴは細く息を吐きながら天井へと視線を移した。

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あきゅろす。
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