虫かご恋愛(4)* 刻一刻、一刻と。 ゆっくりではあるが確実に、時は流れているようだった。 不動の花と蝶しかいない、このかごの中。景色こそ変わり映えはしないのだが、着実に変わっていくものも勿論ある。 芭蕉はもはや自分で立っていられる程の力もなく、水の張ったガラスの縁に頭を載せて横たわっていた。眠っている時間が増え、目覚めても、視界が曇って見えにくいことが多くなった。 こうなってしまっては蜜どころの話ではなく、いつの間にかソラがそれを求めて芭蕉に近付くこともなくなった。 それでも、お互いにまだ生きてはいる。ソラもまだ芭蕉の視界の中にいる。色褪せていく世界と、記憶さえ輪郭がぼやけていくような中で、ソラの真っ白な片羽だけが鮮烈な色をしている。 このまま何もかも終わってしまうのだと、動かない体が予兆を告げていた。 かごに入れられてから後、芭蕉の中で積もり続けた苦悩や悲しみが、雪のように溶けて蒸発していくような感覚。無論、芭蕉は雪など直接は見たことがない。でも、知っているのだ。 それは種だった頃の土の中の記憶か、他の花から聞いた話か。どちらにせよ、冬が終わり、雪が溶ければ春が来て、夏が来る。季節は移り変わり、同時に生命もまた、次の生命へと役目を手渡す。永遠に繰り返される回帰に、抗うことなど許されはしない。 定められ、抜け出せないこの循環の中で、小さな命が果てるだけ。 頭ではそう理解しているはずなのに、芭蕉の心の大部分を占める愛しい存在が、ただ一つの気がかりだった。 どちらが先に死んでもおかしくはないのだが、芭蕉はその時のことを思うと、酷い不安と恐怖に襲われるのだ。 ソラとて、食料を得る手段がなくなった今、自分の死期が迫っていることは自覚しているだろう。 空を見上げながら、ソラが何を思い何を考えているか、芭蕉にはわからない。 君が先に死んだら、最期くらい私のことを思い出してくれるだろうか。私が先に死ぬのなら、君は少しでも悲しんでくれるだろうか。 どんな疑問をぶつけても、答えは返ってこない。この一方通行で惨めな片思いも、終わりが近付いている。 時間の波に埋もれてしまいそうな想いは、何回も芭蕉の中を駆け巡っては頭を悩ませるのだが、結局は行き場を見つけられずじまいだった。 『 』 微睡み、途切れがちな意識の中、いつかと同じように芭蕉は呼ばれたらしかった。 あの時から、随分と日にちが経った気がする。実際は短かったのかもしれないが、その間に幾多の心境の紆余曲折があった。 悲しみ、苦しみ、浮かれ、期待し、寂しくなり、何よりも迷い、一々戸惑った。一人になってから、初めて経験した感情。それらは大半が、後から連れて来させられたもう一人が原因だった。 芭蕉は自分の中で色々と葛藤しながらも、わざと時間をかけて目を覚ました。 弱っても尚美しいその漆黒の瞳を見ると、息が詰まる思いだった。 闇夜に立つ凛とした立ち姿は、これだけ放置された後でも、会えると単純に嬉しかった。 「…今更なに?」 何とか絞り出した声は、掠れてか細かった。 本当はこんなことを言いたい訳じゃない。なのに、素直に言葉が出てこない。 届かないと知っていてもあれだけ好きだと口にしていたのに、いざ目の前にすると強がってしまう。 そんな芭蕉のことを、ソラはただじっと見つめていた。 出会った当初のような覇気は今や薄れ、どこか眠たそうだ。 しかし悟ったようなその表情は、お互いに残された時間が極僅かであることを、再度芭蕉に知らしめる。 『 』 ソラはまた何かを言って、横たわっている芭蕉に腕を伸ばした。 顔に触れた手は弱々しくも芭蕉に熱を伝え、優しかった。 かつてのような荒々しさがないのは少し寂しいような気もするが、それでも、甘い愛おしさが堰を切ったように込み上げてくるのがわかった。 自ら体を寄せることが出来れば、どれだけ幸せだろう。何度も夢見たことは、やはり叶いはしないのだけれど。 『 』 ソラはポツポツと何かを呟きながら、まるで芭蕉の存在を確かめるかのように、その老いた身体を撫でた。 音にはならないが、ソラの紡ぐ言葉はどこか独り言のようだった。それでいて、芭蕉に何かを言い聞かせているようにも見える。 独白を止めた後も、暫くの間ソラは芭蕉の体に触れていた。 言うべきこともわからないので、芭蕉はソラと視線がぶつかったままだった。 どう足掻いたところで、何を考えているかはお互いに知り得ない。 だが、少しでもソラが自分のことを気にかけてくれるのなら、芭蕉は甘美な気持ちに浸れる。 いっそこのまま、殺されても構わなかった。愛する者の手であれば、芭蕉に未練などない。 ソラが好きだ。愛おしくて仕方ないのだ。 何故もっと前に出会えなかったのだろう。何故同じ種族に生まれなかったのだろう。 ここに来て、芭蕉が疑問に思うのはそればかりだ。 『 、』 不思議なことに、終わりを告げられているのがわかった。 ソラは最後に、名残惜しげに芭蕉に口づけをした。その後で見上げた顔は、どこか毅然とした決意に満ちていた。 温かな体温が離れ、ソラがすっくと立ち上がる。 芭蕉は、何もすることが出来ない。だが、全身がソラが離れていくことに警報を鳴らしていた。 彼がどこかに行ってしまう。この狭いかごの中から、どこへ? わからないのだが、わかりやし得ないのだが、芭蕉の手の届かない場所であることは確かだ。 いや、今までのソラのことを思い返してみれば、彼がどこへ行くかなんて十中八九明白じゃないか。逆に、そこ以外にどこが考えられるだろう。 芭蕉が長年憧れていた場所。片羽をもがれたソラが、それでも焦がれ続けた場所。 "空"以外に、彼がどこに向かおうと言うのだ。 「…っ!ねぇ!待ってよソラくん!行かないで!!」 枯れた叫び声は、虚しくかごの中に響いた。 ソラは振り返るどころか、羽を引きずる足を止めなかった。芭蕉に背中を向け、透明な壁際へと遠ざかっていく。 「私を置いて行かないで!!待って!行くなら私も連れてって!」 意味さえ伝わらないことも、聞き入れられることのない願いであることも、わかってはいるのに、芭蕉は声を張り上げずにはいられなかった。 ソラが何をする気なのかはわからない。 だが、ソラは何かを決意したのだ。それは恐らくは一生のお別れで、動けない芭蕉にはどうすることも出来ない。 「お願い!!待って!君が好きなの!君がいないと、私は!私は…っ!」 "一人"に、なってしまう。 涙が滲んでぼやけた視界の遠くで、ソラがかごの壁に足をかけた。 登るつもりなんだろうか。このかごの中から出ようとしているんだろうか。 そんなこと、出来るわけない。 片羽で、死にかけで、一羽の蝶でしかない君が。 そして同じく死にかけで、加えて動くことも出来ない一輪の花である芭蕉が、それを止めることは不可能だ。 涙が溢れ出てきて、芭蕉は自分が"花"であることを心の底から呪った。 想いも通じないまま、終わってしまう。一人に、戻ってしまう。 「行かないで!!一人にしないで!!!」 ───ふわり。 ソラが、飛んだ。 出来るだけ高くよじ登った壁から勢いをつけて、片羽の蝶は飛び立った。 四角い空を目指したらしい体は一瞬宙に浮きはしたものの、そのまま落下した。 衝撃に耐えられなかった脆い体は自分の重みで潰れ、残っていた羽も無残にその背中から分解した。 蝶の最後の試みは失敗だった。 焦がれ続けた"空"に届くことは叶わず、短い命も尽きてしまった。 その死体は翌日には何事もなかったかのように片付けられ、"花"は一人、虫かごに残されることとなった。 …夢を、見るようになった。 青く、どこまでも澄んでいる大きな空を、自由に飛んでいる夢。 それはかつて私が世界を見てみたいと望んだことではあったけど、それよりも大切な者を失ってしまった今、この夢は皮肉でしかない。 でも考えてみれば、私が以前から"空"に憧れていたのも、何かしらの宿命であったような気がしてならない。 きっと私が"花"として、君が"蝶"として生まれる以前にも、私と君はどこかで会っていたんじゃないかと思う。 そうでないと、あの状況で私達が巡り会ったことに理由がつかないから。 だとすれば、次にまた別の形で生まれ変わった時にも、また君とは会える気がするんだ。 ああ、その時には、せめて言葉が通じたらいいね。私はそう信じることにしたから。 だから私は未練を残したまま、君と同じく夢に思いを馳せて、散ることにします。 何回だって、私達は会う運命なんだ。いつの日か君と通じ合えるまで、私が君を諦めやしない。 次に会った時も、その次に会った時も、私は枯れ腐るまで君を愛すると、誓うよ。 [*前へ] [戻る] |