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虫かご恋愛(3)



それからというもの、芭蕉が"ソラ"と名付けた片羽の蝶は、昼間は空ばかり見上げているようになった。
夜中に突然思い出したように芭蕉の元に近寄ってきては蜜を啜るのだが、それ以外の時は特に芭蕉の方を見ることもなく、じっと動かないでいることが多かった。
元々寡黙で、物静かな性格なのかもしれない。連れて来させられた当初のように飛んでみようと試みることもなく、狭い世界に文句を言っている様子もなく(何か言っていても芭蕉には意味さえわからないのだが)、芭蕉のように発狂したり苦しんだりしている風もなく、一日の大半はかごの四角い天井を見つめて過ごしている。時折残った羽をふわりと動かしているので、生きているのは辛うじて確認できる。
芭蕉はと言えば、そんなソラを一日中見守っていることしか出来なかった。向き的にソラは芭蕉の真正面にいるので、芭蕉が何をしていようが視界には入るのだ。
無駄だとはわかっていても、何度話しかけたかわからない。芭蕉が何か言っていること自体、ソラが気付いている気配はない。それでも芭蕉は、自分の身の上話やらソラへの質問やら、色々なことを話しかけ続けた。反応すらしない相手にそうすることに得はないのだが、気は紛らせることが出来る。ソラが近くにいるだけで、一人じゃないと自分に言い聞かせられるだけで、孤独感は幾分か薄れるのだ。
その分、蜜を啜られている間は、芭蕉はとても満たされるようになった。身体的には苦しいのだが、ソラも芭蕉への接し方に慣れたらしいので、最初程ではない。残っている蜜の少なさから、毎回喘いで醜態を晒してしまうのは恥ずかしい事この上ないが、ソラはおそらく気にしてはいない。相変わらず、その時だけは優しく芭蕉を扱ってくれる。どれだけ激しく求められ、苦しかろうと、その腕の中なら芭蕉は耐えることが出来た。慈しむように口付けるその息づかいも、芭蕉にはない温かな体温も、いつまでも感じていたいと思うようになった。
そう思う感情にソラへの"愛おしさ"が含まれているとしても、それが"恋"であるのかどうか、芭蕉は悩むようになった。
かつてであれば蝶ならずとも、近くにいるのが虫であれば、蜜を啜られることは日常的に行われていた所作だった。口付けられて、啜られて、していたことはソラと大概変わらない。むしろ、かつての方が"花粉を運んでくれる"という利益があった訳で、"花"としてもあくまで平等な"取引"だった。それなのに、一方的に求められるだけのソラとの行為の方が、芭蕉には嬉しく感じるのだ。それどころか、ソラが自分から離れていくのが惜しいと、寂しいとまで思っている。
そもそも、こういった感情が"花"である自分と、"蝶"であるソラとの間に成り立つのこと自体がおかしいし、間違っている。
"花"は元々両性具有なところがあるので恋愛感情も何も元からないはずだし、"蝶"なんて種族も違うのだから、惹かれるものも何もない。"憧れ"にはなるかもしれないが、決して"好き"にはならないのが条理だろう。
それなのに、芭蕉はソラに"恋い"焦がれていた。それ以外に、どうもこの想いに合った名前が思いつかない。しかも"片思い"である可能性が高いのだから、余計にそう思えてくる。


「ソラくーん、」

…ほら。何を言っても振り向きやしない。
ソラが芭蕉の元へ近寄って来るのは、彼が腹の空くらしい夜中だけだった。
昼間のソラは、今や石のように微動だにしない。芭蕉には見えず、ソラにだけ見える景色があるのかと思ってしまうほどだが、ソラはじっと"空"を見たまま動かない。
片羽になったとはいえソラは"蝶"なわけで、彼が空に焦がれる理由も、芭蕉は理解しているつもりだ。
でも、辛いものは辛い。
ソラが"空"を見ているのと同じくらい、芭蕉も"ソラ"を見ている。それ故に、別にわかってしまうこともあった。
激しさと優しさを兼ね備え、生きる力で潤っていたはずのその瞳が、段々とその色を宿さなくなっている。空を見つめる眼差しが、時が経つにつれて弱く、空虚なものに変わっているのだ。同時にソラの体も以前より痩せ、羽を動かすのもぎこちなくなってきた。まるで彼の生気を、彼がいつも見ている空に吸い取られているようだとも思った。
それでも彼は、その視線を四角い天井から背けようとしないものだから、嫌でも芭蕉は自覚してしまう。
自分はソラにとっての"生きる手段"、即ちソラが"空を諦めていないが故の生きる手段"でしかないのだということ。
彼が望んでいるのは"生きること"や"空を飛ぶこと"なのであって、あくまで芭蕉そのものではない。芭蕉に優しく接するのは、言わば彼自身の望みのためなのだ。
ああ、そんなの、わかっているつもりだったのに。


四角い空を、弱く、乾いた眼差しで見ている上の空の君は、涙で霞んだ視界の中。
私が泣いている理由など、君は知らないだろう。
こっちを見てよ。それだけで救われるのに。
この想いは届きやしない?
形も異なれば、言葉も通じやしないけれど。
それなら、何で君のことを想うだけでこんなにも苦しいの?
「好きだ」と叫んで、君の元へ行けたらどんなにいいだろう。
結局は相容れない関係なら、何故私は君と同じ場所にいるの?
絶望していた私が、君のためならもっと"生きたい"とも思った。
君が、ソラくんが、私のことを少しでも必要としてくれるだけでよかったはずなのに。
もう、それだけじゃ足りないんだ。

「私は君が、好きなのに」

好きです。大好きです。狂ってしまいそうなほど。
何と言おうと、ソラには伝わらない。

「私のことを見てほしい。私だけを見ていてほしい」

叶わないことだと、わかっているのに言わずにはいられない。

「振り向いて。お願い。君のことを想うだけで壊れそうなの」

残された自覚は僅か。
どちらが先に尽きるかはわからない。
そのことが、余計に芭蕉を焦らせるのだ。

「君に伝わるまで…君が気付くまで!言い続けてやるから!君のことが好きなんだよ、ソラくん…」

最後の方は、涙が滲んできて消えかかってしまった。
どうせ結ばれない運命であることは最初からわかっていた。
それなのに辛くて、心が痛くてしょうがないから、芭蕉はソラに言い続けるのだ。
届かない、届きやしない言葉は、まるで"花"から"蝶"への、報われない純恋歌のようだった。







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