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虫かご恋愛(2)*



芭蕉が意識の底から浮上すると、ひどい息苦しさに苛まれた。元々かごの中は日が当たりにくく、酸素が薄いのだが、寝ている時は幾分か忘れられるのだ。
その分目覚めるのが大変憂鬱で、億劫だった。目覚めたところで、またあの閉じ込められた空間で何をするでもなく苦しむだけだ。
ここまでくれば、もう思考なんて邪魔でしかない。何も出来やしないのに、苦しい感情だけがはっきりと芭蕉を支配している。
出来ることなら、一生眠っていたいとさえ思う。なのに何の優しさのつもりか、水だけは毎日与えられるものだから、芭蕉は嫌々生きている。
また、寝ているうちに水を変えられたらしく、足元が冷たくて眠れそうにない。否応無しに身体の中に吸い込まれていく水と格闘しながら、そういえば昼間落ちてきたあの蝶はくたばっただろうか、と芭蕉はふと思いついた。
そうだとして、その死体が放置してあるか片付けられているかは検討がつかない。しかし腐臭は漂って来ないので、死んだ状態のままではないだろう。
脳裏に哀れな蝶の姿を思い浮かべながら、芭蕉は結局起きることにした。

辺りは既に暗く、しんと静まり返っていた。
しかし最初に芭蕉の視界に飛び込んで来たのはいつものぼんやりとしたかごの中の"無"ではなく、黒々と輝く、落ち着いた二つの瞳だった。

「……え?」

芭蕉が声をあげると、その瞳がすっと離れた。
改めて見てみると、それは薄暗い光に照らされた紋白蝶の顔だった。一瞬別人かと思ったが、背中の羽も片方だけだ。
死んでいない。それどころか、片羽でここまで動いて来たのだろうか。
芭蕉は、驚愕のあまり何の反応もしめせなかった。すると、蝶は芭蕉の顔に視線を固定したまま、口を開いて何かを喋った。

『      』

意味はわからない。だが、蝶は何かを聞きたそうな顔をしていた。
芭蕉が首を横に振ると、蝶はため息をついて、その片羽を勢いよく広げた。
鱗粉が、キラキラと芭蕉に降り注ぐ。透明感のある白い羽は暗闇に映えて、筋が艶めかしく浮き立っていた。それを更に際立たせるかのように、羽の縁の方には彼の瞳と同じ色の、黒の斑点模様。
芭蕉が今までに見てきた蝶の中でも、一番美しいと思える片羽だった。もしこの羽がきちんと揃っていれば、もっと綺麗だったんだろうか。

『       』

「ごめん。何を言ってるかはわからない。でも、君もきっと辛かったんだね…」

芭蕉の言う言葉も相手に伝わっているはずはないのだが、蝶は頷いた。

「ああ、そうだね。君とは、このかごの外で出会いたかったなぁ」

話が噛み合っている可能性はゼロだと思われた。以前から、虫と話すような時はこんな調子である。
それ故に、本当に言いたいことは顔の表情で表す。
最近は泣いてしかいなかったのでうまく出来るか不安だが、芭蕉はにこりと笑ってみることにした。

「どうせ君も死ぬ運命だけどさ。でも、僅かな間よろしくね」

『     ?』

蝶はじっと芭蕉の笑った顔を見つめていたかと思うと、突然身を乗り出してきた。蝶の鋭い眼光が、近い距離で痛いほど芭蕉に突き刺さる。

「…君、何か…近くない…?」

その問いに対しては、蝶は言葉さえ発しなかった。それどころか芭蕉が浸かる水の中へ、器用に羽を濡らさないようにしながら侵入してきた。
このガラスの中に、二人分のスペースなどない。しかも、芭蕉は元々自分からは身動き出来ない。
蝶の醸し出す威圧感に怯えていると、その手が芭蕉の顔に伸ばされた。

「ねぇ君っ!ねぇったらっ!!」

危機感を覚えた芭蕉が叫ぶと、案の定体ごと突き飛ばされて、視界が反転した。
芭蕉は背中から水の中に浸かり、反対の腹側にはずしりと重みが乗っかった。乗り上げてきたその張本人の顔は無表情だったが、思わず見とれてしまうほど整った造作をしている。
常識的に、"蝶"が"花"に求めることは一つだ。それはかつてならば日常的に行われた取引のようなもので、互いに利益もあった。
しかし、今の状況下ではそれはどうだろう。
"花"としては喜ぶべきことなんだろうか。だがどう考えても、"枯れかけ"の芭蕉にとっては今更な気がするし、利益を考えるならあまりにも"蝶"の方に一方的だ。

「止めときなよ今更!私美味しくもないし──っ」

蝶は反抗の言葉を遮り、芭蕉に口づけた。"花"は動けやしないので、こういった時は基本されるがままだ。
片羽の蝶は、静かに芭蕉から"蜜"を啜ろうとしていた。蜜を豊富に作れるほどの環境にいない芭蕉にとって、それは苦痛の行為でしかない。あるとすれば、芭蕉の蜜は身体の奥底にしか眠っていないだろうからだ。

「─ぷはっ…あ、諦めろっ…て」

蝶がしかめっ面で顔を離した隙に、芭蕉はゼイゼイと喘いだ。
見下す蝶の漆黒の瞳はあくまで野性的だ。この蝶は飢えている。芭蕉は直感的にそう感じた。
そして蝶の方は蝶の方で必死そうだった。この世の不条理に絶望するどころか、自分はまだ"生きたい"のだと、その表情が訴えていた。芭蕉が今までに接してきたどの虫よりも気迫に溢れ、片羽になってなお、本能のままに芭蕉を求めている。
蝶は腕を伸ばして芭蕉を抱きすくめたかと思うと、ぎゅうぎゅうと力強く体を締めつけた。

「痛…い…止めろよ…!」

反抗の言葉が届いているはずもなく。蝶は再び、乱暴に芭蕉に口づけた。
求められるだけなのは、ただ苦しくて痛かった。かつては簡単に生成されていたはずのそれは、芭蕉が死ぬことを願い始めたのと平行して、機能を失ってしまったのかもしれない。
蝶の体温と背後の水との狭間にいて、自分が熱いのか冷たいのかもわからない。意識さえ朦朧としていく中で、ボロボロの体だけが悲鳴をあげていた。そのまま、いっそ全てを壊してくれと、芭蕉は願わずにはいられなかった。


『     』

それからどれだけの時間が経っただろう。蝶が、何かを言っているらしい。
いつの間にか支えをなくした芭蕉の体は、既に温くなった水の中に横たわっていた。ずぶ濡れであるというのに、体中の水分という水分が失われたような心地がしていた。
しかし、その分だけまた、少しずつではあるが、芭蕉の体は足の裏から水分を取り込んでいく。
例えようのない、不思議な気持ちだった。酷いことをされたはずなのに、頭の中は真っ白で、夢の中にいるようにぼうっとしている。

『     』

蝶が、私を呼んでいる?
うっすらとした視界の中で見上げたその口元には、とろりと蜜が滴っていた。到底足りる量ではなかったと思うが、蝶は満足したんだろうか。

「………っ、く…」

皮肉の一つでも言ってやろうと思ったが、言葉の代わりに出てきたのは、一筋の涙だった。
動けやしない芭蕉は、それを拭うことも止めることも出来ない。

「……ひ、っく…」

止まらない。止められない。
最高に惨めな気分だった。
何が悲しくて、今自分が泣いているのかわからない。
非力で。何も出来なくて。それは花だから?一人ぼっちだから?
辛いことがたくさんありすぎて、もう考えることさえ辛くて、悲しくて。
色々な記憶が、一気に芭蕉の中を嵐のように揺さぶっていく。そしてその全てが、芭蕉を責め立てる。
何の為の花。何の為の命。
何一つしていないのに、何の為に死んでいく。
意味のない生命なら、生きてなんて来なければよかったのに。
そうして一つの絶望に行き着いた時、ふと芭蕉の流した涙を拭う手があった。

『        』

言葉はわからなくとも、それはそれは優しい声で、芭蕉は話しかけられたらしかった。
気付けば片羽の蝶が、芭蕉を真っ直ぐな瞳で見つめている。
蝶は先程とはうって変わった丁重な手つきで芭蕉の体を水から起き上がらせると、次にはいたわるように抱きしめた。

「………え?」

『      』

蜜を啜り、自分の飢えを凌ぐためだけの存在のはずなのに、蝶は芭蕉を離さなかった。
蝶の心髄は微塵もわからない。だが、どうやら芭蕉をさっさと枯らせる気はないようだった。
蝶はまた芭蕉の顔を覗き込み、滴り落ちた涙を静かに啜った。

「……君は…ああ、まだ…死ぬ気じゃないんだったね…」

蝶の言う言葉はわからない。
蝶の目的もわからない。
だが、どんな理由であっても、自分を少しでも必要としてくれるなら、今の芭蕉は救われるのだ。

「……君は…こんな私を利用してでも…生きたいんだろうね?」

決して、それで全てが救われるわけではない。
けれど蝶の腕の中は何よりも温かくて、安堵できるものがあった。この優しさが生きることに執着するが故のことなのだとしても、"生物"として見るのならば、その執着こそが、おそらくは一番美しいものなんだろう。芭蕉にはない"生きる者の力"を、この片羽の蝶には感じる。それは芭蕉が長年憧れていた"空"のように遠く、かけ離れ、惹かれていたもののような気がするのだ。
そう考えるならば、この蝶との出会いは本当に最期の、最高の幸せなのかもしれない。
あとほんの少し、あとちょっとだけの命を、芭蕉はこの片羽の蝶に捧げる決心をした。







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