桜雨ー前編1ー 大学一回生の冬だった。 駅の構内で甘栗を売るバイトをしていた俺は、鼻唄をうたいながら割れ栗を見つけては廃棄廃棄と呟きつつしゃがんで口に放り込む、ということを繰り返していた。 甘栗にはシーズンがあり、中国から新栗が入荷されてくる秋から冬にかけて、それまでの古い栗から味がガラリと変わり、甘みが俄然強くなる。これが美味い。実に美味い。 駅の裏で甘栗を焼く仕事もしていたので、皮が弾けて黒い石が入り込んだ割れ栗を廃棄するという名目のもと、人の目もないテントの下で片っ端から食べまくってもいた。しかしそれだけ食べても太る気配がなかった。立ち仕事をしているから、というのもあるが、一番の要因は『お通じ』ではないかと思っている。栗に含まれている食物繊維がそうさせるのか、とにかく快便なのだ。 そんな甘栗ライフなバイト中の俺は、売り場のハコの中から知っている人が通り過ぎるのを見かけた。 京介さんというオカルト好きのネット仲間だ。 「バイト帰りですか」と声をかけるとこちらに気づいて振り向いた。ダッフルコートに、赤いマフラーをしている。 京介というハンドルネームながられっきとした女性であったので、甘栗や焼き芋のごときものは好きに決まっている。 「新栗ですよ」とにこやかに言うとノコノコと近づいてくるではないか。ふふふ。 だが買わせようという腹ではない。 最近京介さんの家に遊びに行くたびに、洗面台のところにある体重計の針を少しずつ進めるというイタズラを敢行していたのだが、それがバレてブッ飛ばされたばかりだった。 その間、会うたびに心なしかげっそりとしていった様子を見ていた俺は、彼女もそれなりにウエイトを気にしているのだと知ったのだった。 であるので、お詫びも兼ねて甘栗をおすそ分けしようと思ったのだ。しかしさすがに売り物は配送量で管理されていたので大量に人にあげるとバレてしまう。 「少し時間ありますか。もうすぐバイトあがるんで」 目配せで俺の意図を読み取ったのか、京介さんは素直にうなずいて、すぐそばで行われていた催事を物色し始める。 それから十分ほどして定時となったので店を片付け、売り上げをJRの社員に確認してもらっていると、すぐ目の前で「松尾先生!」という京介さんの声が聞えた。 これから改札に入ろうとする人の中に知った顔を見つけたらしい。いつもは淡々としているその声が、どこか踊るようなリズムを帯びている気がして意外な感じだった。 先生と呼んだ人と、そのまま立ち話を始めたようだが、俺はもう店長のところへ行かなければならない。 その場を立ち去りながら、京介さんのようなかつての不良娘が学校の先生と親しげに喋っているのが不思議でならなかった。卒業後には軋轢も懐かしい思い出に変わるということか。 店長に今日の報告をした後で、新栗をお世話になっている人にあげたいと言うと、大量に袋につめてくれた。もちろんタダだ。見た目は小男だが、なかなか太っ腹な人だった。それを持って駅の地下に戻ると、ちょうど京介さんが改札をくぐる『先生』に手を振っているところだった。 「栗です。あまったんで、どうぞ」 近寄って手渡すと、「ありがとう」と受け取りながら、ずっと改札の方を見ている。 俺もその後ろ姿が人の波に消えていくところを見つめる。 「中学か、高校の時の先生ですか」 「ああ。高校の時の担任だ。松尾先生。私たちはザビエルって呼んでたけど」 京介さんは懐かしそうに目を細める。 「久しぶりだったけど、変わってないな」 京介さんは高校の授業などサボってばかりだったはずなので、その当時の担任ならどう考えても衝突をしていたはずだ。 訊いてみると、やはりそのザビエルは学校生活の敵であり、よく怒鳴られたのだそうだ。そのころのことを思い出してだんだん腹が立ってきたのか、憎々しげに腕組みをした。手に提げた甘栗の袋がガサリと音を立てる。 「ザビエルって、面白いあだ名ですね」 俺がそう言うと、京介さんはふっ、とやわらかな表情になり、「そうだな」と口を開いた。 そうしてゆっくりと思い出を紡ぐように語り始めたのだった。 ◆ 京介さんから聞いた話だ。 桜が咲いていた。 踏みしめた土の感触。足の裏に感じる柔らかな弾力が、凍てついた冬が去って行ったことを告げている気がする。 家の近くの川沿いに並木があり、それがなんの木なのかいつもは意識することはないのだが、肌寒さが薄れ、吹き付ける風の中にもなにか柔らかいものが通ったある日、気がつくとその枝の先に白い花が咲いていた。 立ち止まって見上げていると、なんとも言えない気持ちになる。どうして桜だけが特別なのだろう。春という、別れと出会い、そして終わりと始まりの節目の時期に咲く花だからだろうか。 白の中に数滴の血を混ぜたような、見る人を落ち着かなくさせる、ほのかな色をしているからだろうか。 私は寒いのは嫌いだ。 寒いくらいなら暑い方が良い。十一月ごろに感じる肌寒さは、これから否応なしに日々寒さが増していく死刑宣告のように感じられて、救いのない気持ちになる。 でもそれは実際には死刑宣告ではなく、懲役刑であって、その刑期がついに明ける日がやってきたのだった。 もちろん、肌触りが変わったとは言っても、今日の寒さもまだまだ私には辛い。 それでも、桜が咲いているというそれだけで、なにもかも許して生きていける気がする。中学校を卒業して、地元の女子高に入学したばかりのころだ。 着ている制服が変わっただけで、中身はなにも変わっていないはずなのに、周囲に求められるものは随分変わってしまった。親からは「もう高校生なんだから、しっかりしなさい」という小言を聞かされることが増え、学校からは「高校生の自覚」という、よく分からないものを持てと言われる。 くだらない。 そう思う一方で、なにか自分でも変えていきたいという意識が確かにあったのだと思う。 私は高校生になったことを期に、タバコの本数を減らすことを密かに心に誓った。さっそく校舎の裏に、人気のない絶好のスポットを見つけた時も、本数は控え目にしたのだ。 気分が良かった。 友だちも出来た。ヨーコという、よく喋る元気な子だ。その元気の良さと行動力に振り回されているというのが本当のところだけれど、悪い気分ではなかった。 そうして、私の高校生としての日々がゆっくりと進み始めたある日、下校途中に校門から出たばかりのあたりで大きな囃したてるような声が聞こえて、思わず顔を上げた。 「あ〜、ザビエルがコレと歩いてる〜」 私のすぐそばにいた二人組の女子生徒が指を立てながら、ちゃかしたように歓声を上げている。上級生のようだった。 その視線の先を見ると、見覚えのあるハゲ頭が目に入った。 「教師に向かって、からかうようなことを言うんじゃない」 そんなことを捲し立てながら、ハゲ頭は怒ってこちらにやってこようとした。 二人組はさほど慌てた風もなく、わざとらしく「キャー」と言いながら、校舎のほうへ逃げ戻って行った。 ハゲ頭は「まったくあいつらは」と吐き捨てるように呟いたあと、連れの女性にヘコヘコと頭を下げた。 「すみませんね、野田先生」 女性の方はいいえと言いながら笑っていた。 美女と野獣だと、私は思った。 はた目にもつり合いが取れていないし、現に相手にされていないように見えた。その卑屈な態度も逆効果だと気付かないのだろうか。 遠くないであろうその失恋を思うと少しかわいそうになった。 ザビエルは私のクラスの担任だった。 もちろんあだ名だが、この『先生のあだ名』というやつは先輩から後輩へと代々受け継がれるもののようだ。 一度その学校へ赴任すれば、最初につけられたあだ名がずっとついて回るらしい。 ザビエルも、最初からザビエルだった。 部活の先輩がそう呼んでいるのを聞いたクラスメートが広めて、三日目には完全にクラスに定着してしまった。 ザビエル自身もそう呼ばれていることは知っているし、諦観というのか、面と向かって呼ばれでもしない限り、いちいち取り締まろうという気はないようだった。 私はこのザビエルには少々含むところがある。 高校生になって最初の土曜日に、私はヨーコと二人で繁華街をぶらついていたのだが、いきなり後ろから声をかけられた。 振り返るとザビエルがいて、「こんなところでフラフラするんじゃない」とか、「街には誘惑が多いから」とか、そういうくだらない説教をはじめた。 生徒指導の担当でもないくせに、たまたま街で出会った私服の生徒を、どうして目の敵にするのだろう。 別になにか悪さをしようというわけでもないのに。少なくとも私の善悪感においてはだ。むしろそっちこそなにかやましいことがあって、その照れ隠しなんじゃないかと勘ぐってしまう。 勘ぐっただけではなく、ヨーコはそれを口にしたので、説教が長くなってしまった。 そんなこともあって、ザビエルは私の敵だった。タバコも学校では相当に気をつけて吸わないといけなかった。 しかし、あとで分かったのだが、ザビエルは偶然街にいたのではなく、いつも繁華街を警戒して歩いているらしい。 そういう担当でもないのに、自発的に生徒の非行を未然に防ごうという、実に素晴らしい教師としての自覚、そして行動だった。 こういう一方的な善意が一番迷惑だ。 一度平日にホテルから出るところで出くわして心臓が止まりそうになったことがあった。こちらが先に見つけたので、すぐに身を隠して事なきを得たが、こんなところまで張っているとは、本当に気が抜けない「センコー」だった。 ◆ [*←][→#] |