信号機 夜だった。 サークルの後輩の家で酒を飲み、深夜一時を回ったころに「じゃあな」と自転車に跨って一人家路についた。 通り過ぎる市街地は人影もまばらで、暗くて顔も見えない人々はしかし皆一様に白い袋を手にしている。コンビニの袋なのだろう。 学生の多い街だ。繁華街からは外れた場所をこんな時間に出歩いている人が寄るところといったら決まっている。 自分もこの帰路の途中、どこのコンビニに寄るべきか、頭の中に地図を広げ始める。しかし自分の頭の中だと言うのに厚い紙が入念に折り畳まれていて上手に広げられず悪戦苦闘していた。やはり酔っているのだろう。 赤信号が見えてブレーキをかけた。 交差点だ。 車など一台も見えないが、黄色の点滅ではない。信号機は普通のパターンのようだ。 片側一車線で、この時間帯なら全方位黄色の点滅でいいだろうに。 そんなことをぶつぶつと頭の中でつぶやきながらそれでも自転車を降りて信号が変わるのを待った。 我ながら順法意識の低い学生のこと。普段なら赤信号だろうが、車が迫っていようが、いけると判断したら渡るのに、その時は酔いで頭の中がシンプルになっていた。 赤は止まれ。青は進め。……黄色はなんだったか。まあいい。 立ったままうとうとしかけて、歩行者用信号機から赤いマークがふっ、と消えたのに気づき、あ、進まなきゃ、と思う。 その時、なんの前触れもなく自分のすぐ横を誰かが先に通り過ぎた。 あれ? 他に人がいたかな。 そう思って前を見たが、街灯に薄っすらと照らされた白と黒の縞模様が道路に伸びているだけで、人の姿はどこにもなかった。 では通り過ぎた誰かはどこに行ったのか。 ぼんやりと顔を正面に向けると歩行者用の信号機が目に入った。動きの鈍い頭の中に氷の一片がさし込まれたように、感覚が急にクリアになった。 ゾクリ…… 首筋に走る、嫌な感覚。 その時、自分の頭の中に走馬灯のように思い出されたことがあった。そうだ。あれは、師匠から聞いた話だった。 ◆ その日、僕は加奈子さんと市内のハンバーガーショップで昼食をとっていた。 二階の窓際の席に陣取り、道行く人々を見下ろしながら心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく語り合っていると、ふいに加奈子さんが右手遠方を見つめ、「うん?」と首を傾げた。 「なんですか」 僕も一面ガラス張りの窓からそちらを覗き込むが、特に変わったことはないように見えた。 「あそこ、信号のとこ。一人いるだろ」 そう言われてよく見ると、遠くの横断歩道のところに、一人だけ誰か立っているのが見えた。 もう一度言う。よく見ると、つまり目を凝らしたら見えたのだ。 ぼんやりと視線を向けただけでは見えなかった。その誰かは。 「お化けがいるなあ」 加奈子さんはコーラのカップから伸びるストローを噛みながらぼんやりとそうつぶやく。 この距離で良く気づくものだ。感心ながらまじまじと見ていると、その横断歩道で立ち止まっている誰かはまったく動き出す様子がなかった。 信号が変わって、通行人が一斉に歩き出してもその人物だけはその場に立ち止まったままだった。また別の人々が横断歩道の前に溜まり、再び信号が青になってもその光景が繰り返される。何度もだ。 「あれ何してんのかなあ」 「何してるんでしょうね」 「おい」 「え」 加奈子さんが急に顔をこちらに向けた。 「ちょっと言って、訊いてこい」 「は?」 ストローから口を離したかと思うと、カップを持つ手から人差し指だけを立ててこちらに向ける。 「だから、今からあそこ行って、何してんのか訊いてこい」 「はあ」 しぶしぶ立ち上がる。 加奈子さんは冷めかけたポテトの欠片を指先で探りながらまた窓の外に目をやっている。僕は飲み物や食べかけのバーガーを残したまま一人だけで階段を降り、ハンバーガーショップの外に出る。 また階段を上り、戻って来た時も加奈子さんは同じポーズで窓の外を見ていた。 席に着くと、心なしか僕のバーガーが小さくなっている。持ち上げてじっと眺めていると、「どうだった」という声。 「ええと。なんか、信号を待っているそうです」 「信号? 何度も青になってるじゃん」 「いや、それが歩行者用の信号って、人間が歩いてるマークが青で、真っ直ぐ立ってるマークが赤じゃないですか」 「そうだな」 「自分は違うそうです」 「は?」 「いや、ほら。足が……」 「ないからって?」 師匠は呆れたように顔をしかめる。 「はい。信号が進んでいいマークに変わらないからずっと待ってるとかなんとか……」 「お化け用の信号なんてあるか!」 バカじゃないの。 師匠はテーブルを叩く。 「じゃああいつ、ずっとあそこで待ってるつもりか」 「さあ。たぶん」 窓の向こうに目をやると、横断歩道のところにまだその人影がじっとしているのが見えた。歩き出す人々からぽつりと一人離れて。 「あいつ死にたてなのかな」 「さあ。たぶん」 僕は小さくなったように見えるバーガーの、キツネ色のパンズの上に残る小さな歯型を眺めている。 加奈子さんは何かぶつぶつ言っていたが、やがて顔を上げて口を開いた。 「いくらなんでも、そんなことでこの先やっていけるのか」 怒ったような口調だった。 知りませんよ、そんなこと。 加奈子さんはいきなり立ち上がった。 「説教してくる」 そして僕が止めるのも聞かず、さっさと階段を下りていってしまった。残された僕は溜め息をついてから向かいの席の食べ物を漁ろうとした。 しかしポテトの欠片一つ残ってはいなかった。 戻ってきた加奈子さんは、少し不機嫌そうだった。 「どうでした」 この窓から見ていた限りでは、横断歩道の前で身振り手振りで加奈子さんが何か言っている間にその人影は消えてしまった。 白昼に、人間が一人消えてしまったことよりも、誰もいない場所に一人で喚いている女性に対して道行く人々は気味の悪そうな視線を向けている。元々僕ら以外の誰にも見えていないのだ。その生真面目なお化けは。 「駄目だ。びびって消えた」 「優しく言わないからでしょう」 「別に怒鳴ったわけじゃない。教えてやっただけだ」 「教えるって、なにをですか」 師匠はそこで、持ち上げたコーラのカップの予想外の軽さに驚いた顔をしてから、ニヤリと笑って、言った。 「信号の渡り方」 そうして、「お化けの」と付け加えてからテーブルに空のカップを置いた。 ◆ ゾクゾクしている。首筋が。 トットット…… 心臓の音が早い。そのリズムでアルコールを含んだ血液を全身に流している。 なのに頭は酩酊から冷めている。 街灯の明かりしかない夜の交差点。横断歩道の信号が変わり、夜目にも毒々しい赤い『止まれ』のマークが消えたばかり。 しかし動けない。歩き出せないでいる。 信号機は消えたままなのだ。赤だけではなく、青も。どちらの明かりも消えたままだった。 歩行者用だけではない。自動車用の信号機も灯が消え、暗闇の中にぼんやりとその無機質な姿が浮かび上がっている。 真夜中、時間が止まったような光景だった。ただ目に見えない気配だけが、無人の横断歩道を渡って行く。 ついて行ってはいけない。それだけは分かった。 噂は聞いたことがあった。市内で、夜に信号がすべて消えたら動いてはいけない。人ではないものが、通り過ぎる時間だから…… その噂は、数年前から聞かれるようになったという。わりに新しい噂話だ。けれど広まるのは一瞬だ。口から口へ、耳から耳へ。 自転車のハンドルを支えながら、色と、音のない世界でじっと立ち尽くしている。気配が横断歩道の向こうへ消えて行くまで。 その間、頭の中に地図を広げる。夜の街の網目のように張り巡らされたすべての路地を幻視する。そこには目に見えない噂話が音にならない囁きとともにゆっくりと流れている。 やがて我に返ると、青い歩行者のマークが点灯していることに気づく。遠くから大きな猫の目のようなヘッドライトが減速しながら近づいてくる。 ペダルに足を掛けると、薄暗い横断歩道の向こう側で目に見えない誰かがもうそこで待っているような気がして、ひくりと息を飲んだ。 [*←][→#] |